方向を転じて了うたが、『氷魚』の末から『太※[#「虍/丘」、第3水準1−91−45]集』へ渉《わた》る歌口なのだ。そのかみ「切火評論」を書いた私などは、此方角を赤彦の為に示すだけの力のない、微々たるあげ脚とりに過ぎなかったことを思うと、義理にも、批評のない歌壇を慨嘆する様な顔も出来る所ではないのだったが。
文芸の批評は単に作家の為に方角を示すのみならず、我々の生命に深さと新しさとを抽《ひ》き出して来ねばならぬ。その上、我々の生活の上に、進んだ型と、普通の様式とを示さねば、意義がない。短詩形が、人生に与《あずか》ることの少いことは言うたが、社会的には、そう言うても確かな様である。併しその影響が深く個性に沁《し》み入って、変った内生活を拓《ひら》くことはある。芭蕉の為事《しごと》の大きいのは、正風に触れると触れぬとの論なく、ほうっとした笑いと、人から離れて人を懐しむゆとりとを、凡人生活の上に寄与したことにある。
私は、歌壇の批評が、実はあまりに原始の状態に止って居るのを恥じる。もっと人間としての博《ひろ》さと、祈りと、そうして美しい好しみがあってよいと思うのである。

   歌人の生活態度
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