から来る歌の塞り
短歌の前途を絶望と思わせる第二の理由は、歌人が人間として苦しみをして居な過ぎることである。謂《い》わば[#「謂《い》わば」は底本では「謂《い》はば」]、懐子《ふところご》或は上田秋成の用語例に従えば、「ふところおやじ」である人さえ多すぎる為である。もっと言い換えるのもよいかも知れぬ。生みの苦しみをわりあいに平気で過している人が多いと。尤《もっとも》、おべんちゃら[#「おべんちゃら」に傍点]でなしに、私の友人たちは勿論、未知の若い人々の間にも、私の心配とうらはらな立派な生活の生き証拠としての歌を発表する人も、随分とある。併し概して、作物の短い形であると言う事は、安易な態度を誘い易いものと見えて、口から出任せや、小技工に住しながら、あっぱれ辛苦の固りと言った妄覚を持って居る人が多い。口から出任せも、吉井勇さんの様なのは、所謂《いわゆる》悪人――失礼だが、譬《たと》えが――成仏に徹する望みは十分にある。ふところ子・ふところ爺の生《なま》述懐に到っては、しろうと[#「しろうと」に傍点]本位である短歌の、昔からの風習が呪《のろわ》しくさえ思われるのである。
短歌は、成立の最初から、即興詩であった。其が今におき、多くの作家の心を、わるい意味で支配して居る。つまりは、認識の熟せない、反省のゆき届かないものをほうり出すところに、作家の日常の安易な生活態度がのり出して来るのである。この表現に苦しむことが、亡き赤彦の所謂|鍛煉道《たんれんどう》の本義である。そうしてこそ、人間価値も技工過程に於て高められて来るのである。併しながらそこまでのこらえじょう[#「こらえじょう」に傍点]のないのが、今の世の歌人たちの心いき[#「心いき」に傍点]である。それは鼻唄もどきの歌ばかり作って居た私自身の姿を解剖しても、わかることである。
この表現の苦悩を積むほかに、唯一つの違った方法が、技工の障壁を突破させるであろう。古代詩に著しく現れた情熱である。その激しい律動が、表現の段階を一挙に飛躍せしめたのである。ところで、澆季《ぎょうき》芸術の上に、情熱の古代的|迸出《へいしゅつ》を望むことは出来ない。我々の内生活を咄嗟《とっさ》に整理統一して、単純化してくれる感激を待ち望むことが出来ないとすれば、もっと深い反省、静かな観照から、ひそかな内律をひき出す様にする事が、更に歌をよくし、人間とし
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