もないが、一つ言うてみよう。畳と藤の花ぶさの距離に注意が集って、そこに瞬間の驚異に似て、もっと安らかな気分に誘う発見感があったのである。これを淡い哀愁など言う語で表す事は出来ない。常臥《とこぶ》しの身の、臥しながら見る幽《かす》かな境地である。主観排除せられて、虚心坦懐《きょしんたんかい》の気分にぽっかり浮き出た「非人情」なのではなかろうか。漱石の非人情論は、主旨はよくて説明のあくどい為に、論理がはぐれて了ったようである。結局藤の花の歌は、こうした高士の幽情とは違った、凡人の感得出来る「かそけさ」の味いを詠んだものなのであろう。
最近の茂吉さんの歌に、良寛でもないある一つの境地が顕《あらわ》れかけたのは、これの具象せられて来たのではないかと心愉《こころたの》しんで見て居る。氏は用語に於いて、子規よりも内律を重んじた先師左千夫の気質を承《つ》いで、更に古語によらなければ表されない程の気魄《きはく》を持って居る。赤彦の創《はじ》めた『切火』の歌風は、創作家の新感覚派に八九年先んじて出て、おなじ手法で進もうとする技工本位の運動であった。其が、赤彦の嗜《たし》む古典のがっしり調子と行きあって、方向を転じて了うたが、『氷魚』の末から『太※[#「虍/丘」、第3水準1−91−45]集』へ渉《わた》る歌口なのだ。そのかみ「切火評論」を書いた私などは、此方角を赤彦の為に示すだけの力のない、微々たるあげ脚とりに過ぎなかったことを思うと、義理にも、批評のない歌壇を慨嘆する様な顔も出来る所ではないのだったが。
文芸の批評は単に作家の為に方角を示すのみならず、我々の生命に深さと新しさとを抽《ひ》き出して来ねばならぬ。その上、我々の生活の上に、進んだ型と、普通の様式とを示さねば、意義がない。短詩形が、人生に与《あずか》ることの少いことは言うたが、社会的には、そう言うても確かな様である。併しその影響が深く個性に沁《し》み入って、変った内生活を拓《ひら》くことはある。芭蕉の為事《しごと》の大きいのは、正風に触れると触れぬとの論なく、ほうっとした笑いと、人から離れて人を懐しむゆとりとを、凡人生活の上に寄与したことにある。
私は、歌壇の批評が、実はあまりに原始の状態に止って居るのを恥じる。もっと人間としての博《ひろ》さと、祈りと、そうして美しい好しみがあってよいと思うのである。

   歌人の生活態度
前へ 次へ
全16ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング