が行はれてゐたものと考へられるのですが、唯今、其証拠と見るべきものはありません。が、唯暦法の考へを異にする事から生じた初春の前晩の行事が、尠くとも二つあります。即、社では、春日若宮祭りの一の松以下の行事、寺では興福寺の二月の薪能です。此等は皆翁や風流を伴つてゐました。其ばかりか、脇能も行はれてゐたのです。薪能は田楽の中門口と同じ意味のものであつたらしいし、御祭り[#「御祭り」に傍線]は全く、松ばやしの典型的のものであつたものと言へます。此場合に、松は、山からはやして来たものでなく、立ち木を以て、直ちに、神影向の木――事実にも影向の松と言つた――と見たのです。翁は御祭りから始まつたのではなく、其一の松行事が、翁の一つの古い姿だつた事を示すものです。二つながら、神影向の木或は分霊の木の信仰から出てゐます。薪能の起りは、恐らく翁一類の山人が、山から携へて来る山づと[#「山づと」に傍線]なる木を、門前に立てゝ行く処にあつたのであらうと思ふのです。かうして見ると、八瀬童子が献つた八瀬の黒木の由来も、山づと[#「山づと」に傍線]にして、分霊献上を意味する木なる事が、推測せられるではありませんか。此が更に、年木・竈木の起りになるのです。

     一七 もどき[#「もどき」に傍線]の所作

私は、日本の演芸の大きな要素をなすものとして、もどき役[#「もどき役」に傍線]の意義を重く見たいと思ひます。近代の猿楽に宛てゝ見れば、狂言方に当るものです。だが、元々、神と精霊と――其々のつれ[#「つれ」に傍線]――の対立からなつてゐる処に、日本古代の神事演芸の単位があります。だからして方[#「して方」に傍線]に対して、単に、わき方[#「わき方」に傍線]――或はあど[#「あど」に傍線]と称する――に相当する者があつたゞけです。其中、わき方[#「わき方」に傍線]が分裂して、わき[#「わき」に傍線]及び狂言となつたのです。訣り易く言はうなら、もどき役[#「もどき役」に傍線]から脇・狂言が分化したといふ方がよい様であります。
もどき[#「もどき」に傍線]は田楽の上に栄えた役名で、今も、神楽の中には、ひよつとこ面[#「ひよつとこ面」に傍線]を被る役わり及び面自体の称へとなつて、残つてゐます。もどき役[#「もどき役」に傍線]は、後ほど、狂言方と一つのものと考へられて来ましたが、古くは、脇・狂言を綜合した役名でありました。私は前に猿楽のもどき[#「もどき」に傍線]的素地を言ひました。今、其を再説する機会に遇うた事を感じます。
もどく[#「もどく」に傍線]と言ふ動詞は、反対する・逆に出る・批難するなど言ふ用語例ばかりを持つものゝ様に考へられます。併し古くは、もつと広いものゝ様です。尠くとも、演芸史の上では、物まねする・説明する・代つて再説する・説き和げるなど言ふ義が、加はつて居る事が明らかです。「人のもどき負ふ」など言ふのも、自分で、赧い顔をせずに居られぬ様な事を再演して、ひやかされる処に、批難の義が出発しましたので、やはり「ものまねする」の意だつたのでせう。
田楽に於けるもどき[#「もどき」に傍線]は、猿楽役者の役処であつたらしく、のみならず、其他の先輩芸にも、もどき[#「もどき」に傍線]としてついてゐたものと思ひます。其中、最関係の深かつた田楽能から分離する機会を捉へたものが、猿楽能なる分派を開いたのでせう。ちようど、万歳太夫に附属する才蔵が、興行団を組織して歩く尾張・三河の海辺の神楽芸人に似た游離が行はれて、自立といふ程のきはやかな運動はなく、自然の中に、一派を立てたのと同様だと思ひます。此点は、世阿弥十六部集を読む人々に特に御注意を願はねばならぬ処で、田楽・曲舞などに対する穏かな理会のある態度は、かうして始めてわかるのです。呪師猿楽と並称せられた呪師の本芸が、田楽師の芸を成立させると同時に、猿楽は能と狂言とを重にうけ持つ様になつて行つたのです。だから、総括して、田楽法師と見られてゐる者の中にも、正確には、猿楽師も含まれてゐた事は考へてよいと思ひます。林田楽など言ひました曳き物も、ひよつとすれば、田楽師のもどき方[#「もどき方」に傍線]なる猿楽師(近江)の方から出たもので、松ばやし[#「松ばやし」に傍線]と一つ物と言ふ事はさしつかへないかも知れませぬ。
猿楽はもどき役[#「もどき役」に傍線]として、久しい歴史の記憶から、存外、脇方を重んじてゐるのかも知れません。柳営の慶賀に行はれた開口《カイコウ》は、脇方の為事で、能役者名誉の役目でありました。而も、田楽の方にも、此があつて、奈良の御祭りには行はれました。高野博士が採集して居られる比擬開口《モドキカイコウ》といふのが此です。だから、開口に、まじめなのと戯れたのと二つがあつた、と見る人もありさうですが、私はさうは
前へ 次へ
全16ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング