は影響のないことで、神功皇后は二人の主を持たれたので、仲哀天皇は夙く崩御されたのだ、と言ふ程である。だから、神に仕へる女は、真の処女(一)と、過去に夫を有つたことはあるが、今は処女の生活を営む者、即寡婦(二)と、夫を持つてゐても、ある期間だけ処女の生活をするもの(三)とに、分けることが出来る。
尚考へなくてはならぬのは、処女にも二通りある事である。此は男の側から言うても同じで、少年がまづ最初に元服すると、村の小さな祭り、即、道祖神祭りなどに与る事が出来、二度目に元服して、若者となつて、初めて、村の祭りに係る事が、出来る様になるのと同じ様に、少女にも、男の通ひ得るをとめ[#「をとめ」に傍線]と、真のをとめ[#「をとめ」に傍線]と二通りあつたのだ。結婚の資格の出来るのは、初めの元服、即|裳著《モギ》の後であらう。そして、二度目に元服する時に、はねかづら[#「はねかづら」に傍線]をしたのではなからうか。
壱岐の島では、独身者が死ぬと、途々花を摘んで頭陀袋に入れてやる。此を花摘み袋と言ふ。死んで行つても、生前村の祭事に与る資格のなかつた者は、行くべき霊の集合地に行つても、幅が利かないので、花を摘んで持たせて遣つたのである。其は、元服の時には物忌みの標《シルシ》にかづら[#「かづら」に傍線]を被ることを意味する。今も、沖縄では其標に三味線かづら[#「三味線かづら」に傍線]を著けるが、殊に、久高島では、のろ[#「のろ」に傍線]は籐の様なものを御嶽から取り出して、頭に纏ふのを見ても、元服の時に花を挿したことは疑はれない。即、元服したと言ふ標をして、冥土に送るのである。かづら[#「かづら」に傍線]は、ものいみ[#「ものいみ」に傍線]の標である。
古く領巾《ヒレ》と言ふものがあつた。采女が著けたものだ。昔は、ずつと短かゝつたのであらう。其にしても、其用途は未だに、はつきりしてゐない。「領巾かくる伴のを」などでは、団体を示した様にも見える。女に限らず、隼人などもやつてゐた様である。まじなひ[#「まじなひ」に傍線]の為か、髪を包む為か、どちらかであらうが、私は、髪の毛を包む為に、まじなひ[#「まじなひ」に傍線]の力を持つてゐるのだ、と解したい。采女は、宮中の勝手向きの為事ばかりしてゐた、と考へるのは間違ひで、国造の女・郡領の女、即、国々の神主の女だつたのだから、皆巫女であつたのである。其
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