のであつた。江戸時代になつて、虚無僧は幕府から朱印を貰うたといふが、其には、訣があつたのだと考へられる。
かゝる事情があつた為に、彼等は後々までも我儘をし、大名たちも、其を抑へる事が困難だつたのである。それには、彼等が法力を持つてゐたことも関係してゐたと思はれる。九州彦山の山伏しが虐殺されたことがある。如上の理由があつて、あまりに彼等の我儘が募り、悪業が高じた為だと思はれる。

     五 祝言職としての一面

彼等はさうした法力を示してゐたが、山伏しの為事は、其だけではなかつた。常には、舞ひや踊りや歌をやつた。
彼等は、前にも言うたやうに、山奥に根拠を据ゑてゐた。私は幾度か三河の山奥へ行つたが、参・遠・信の三国に跨り、方五六里に亘つて、さうした山伏し村が多い。勿論、今は山伏しの影を止めてゐるに過ぎない。私たちが見学に行つたのは、既に「翁の発生」で述べて置いたやうに、其等の村に「花まつり」と称する初春の行事があつたからである。花まつり[#「花まつり」に傍線]は、一口にいへば、其年の稲の花がよく咲く様にと祝《コトホ》ぎする初春の行事なのだが、其態は舞踊であつて、なか/\発達してゐる。
何故、こんな山奥に、こんな舞踊が発達したか。其は決して偶然ではなかつたと考へられる。即、戦国の末に、彼等が勢力を貸した豪族の家々が、其後栄えたからである。歴史の表面では、彼等がどれだけの事をしてゐるか、殆ど記されてゐないが、断篇的の記録はある。三河には徳川氏と関係ある地方に居つた者が多くゐて、徳川氏が栄えて後、擁護を受けたからである。
彼等は、戦争に際しては、其等の家々に勢力を貸したのであつたが、また初春には恒例として、其等の家々、即、檀那の家へ出て来ては、祝福をして行つたのである。ほかひ人[#「ほかひ人」に傍線]としての、昔の記憶を忘れなかつたのである。
由来、日本の戦争には、法力の戦争が栄えた。旗・差し物なども、それから生れたものである。此には長い歴史があるが、其は略する。ともかくも、彼等が戦争に勢力を貸したといふのは、法力で戦争を勝たせるのが主であり、本筋のものだつたのである。

     六 にせ山伏しとの結合

ところで、此、初春に里へ出て来る山人といふのは、日本には至るところにあつて、必しも参・遠・信の山奥とは限らない。思はぬ奥山家から、大黒舞・夷舞などが出て来る。彼等は、
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