道中したのは、後の人から見れば、つくり山伏し[#「つくり山伏し」に傍線]であるが、当時としては、道中をするには其が普通だつたとも見られる。
彼等は団体をなして歩いた。山伏しについては、曾て「翁の発生」の中でも触れて置いたが、彼等が団体的に行動するなどゝいふことは、平安朝の頃まではなかつたのであつたが、時代の刺戟は、彼等を団体的に行動せしめるやうになつたのである。虚無僧・普化僧は、其一分派である。即、禅宗に結びついて出来たものである。彼等は単独の形をとつた。これの著しく目立つて来たのは、略、南北朝頃と思はれる。
彼等の団体には取締り監督があつた。先達が、其である。彼等は行く先々の家々村々を祈つて歩いた。彼等は、其で易々と糊口の道が得られたのであつた。若し、其等の家々村々でよくしないと、彼等は祈りの代りに呪ひをかけた。山伏しが逆法螺を吹くといふ事は、後々までも恐しい事にされてゐた。山伏しの悪業は近世ほどひどくなつたのであつたが、昔から、依頼と恐怖との二方面から見られてゐた。だから、彼等は易々と道中する事が出来たのであつた。

     四 治外法権下の悪業

昔から、宗教の方面には、政治の手が届かなかつた。其には理由があるので、言はず語らずの掟があつて、彼等は全く政治家の権力以外を行つた。江戸時代になつてからも、寺社奉行などはあつたが、山伏しの取締りには、随分幕府も困つた様である。駈落者・無宿者・亡命の徒などが彼等の中へ飛び込めば、政治家も、其をどうする事も出来なかつた。こんな事は以前からもあつた。だから、武力を失うたものが、逃避の手段として、山伏しになつたなどゝいふのが少くない。前に述べた様な理由と、二重の理由によつて、易々と生活して行けたからである。
更に、彼等は後々までも、殊に徳川初期に於て諸大名たちを弱らせた事実に就ても、考へて置かねばならぬ。彼等が大名たちを弱らせたには、弱らせるだけの理由があつたと見られる。諸大名が出世をしたには、皆彼等の手を借りてゐる。彼等は、戦国の当時には、殆ど庸兵として、諸国の豪族に腕貸しをしてゐる。後に大名になつたもので、彼等の助力を受けてゐないものは殆ど一人もない、と言うてよからう。又、彼等の中から出世したものもある。上州徳川の所領を失うたといふ徳阿弥父子が、三河の山間松平に入り婿となる迄の間は、遊行派の念仏聖として、諸方を流離した
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