れたものどうしを繋ぎ合せるから起る間違ひである。
自身の善意に憑んで主張する場合にはちかふ[#「ちかふ」に傍線]と言ふが、他人の心の善悪を判じかねて、悪なら禍あれ、善なら事なかれと言ふ観念から出る呪言は、とこひ[#「とこひ」は罫囲み]であり、其をする事をとこふ[#「とこふ」は罫囲み]と言ふ。やはり神の判断に任せてするのである。其も後には、単なる呪咀を言ふ事になつて来た。尠くとも奈良朝での用語例は、もはや此処に結着して居た。古い正則な使ひ方は、「天神其矢を見て曰はく、此れ、昔我が天稚彦《アメワカヒコ》に賜ひし矢なり。今何故に来つらむとて、乃矢を取り呪《トコ》ひて曰はく、若し悪心を以て射たりしならば則、天稚彦必害に遭はむ。若し平心を以て射たりしならば則、恙《つつが》なからむと、因りて還し投ず。則、其矢落下して、天稚彦の高胸に中りぬ」と見えるのが其である。唯こゝも「害に遭へ。恙なかれ」と発想する法が古いのである。
うけひ[#「うけひ」に傍線]に於いては、神意から出てゐるかどうかと問ふのが、神意がどちらにあるかと言ふ考へに移り、ちかひ[#「ちかひ」に傍線]では、わが行為意思が神慮に叶うてゐる事を、神に証して貰ふといふ観念から、誓約方式となつたが、一方分化したとこひ[#「とこひ」に傍線]の例では、倫理観が著しく這入つて来て、善なら無事であれ。悪なら禍あれと言ふ考へ方になつてゐる。ちかひ[#「ちかひ」に傍線]の例にも此考へが這入つて、天罰の背景の下に誓約する事になるのである。
とこひ[#「とこひ」に傍線]が悪に対する懲罰を請ふ方法と言ふ風に考へられ、更に転じて自分を不利に陥らした相手に罰の下る事を願ふ呪言と言ふ考へに移つて、純然たる呪咀となる。だが、復讐観念の伴うてゐないとこひ[#「とこひ」に傍線]はなかつた。秋山[#(ノ)]下冰壮夫《シタビヲトコ》に対する春山[#(ノ)]霞壮夫の御母《ミオヤ》の採つた方法などは、此例のとこひ[#「とこひ」に傍線]の著しい例である。嫉妬・我欲等の利己の動機から出るものは、かしり[#「かしり」は罫囲み](動詞かしる[#「かしる」は罫囲み])と言ふ語であつたと考へられる。つまりは、とこひ[#「とこひ」に傍線]の分化したもので、単に必要上他人の生活力を殺がうとする呪言である。とこひ[#「とこひ」に傍線]の後期からかしり[#「かしり」に傍線]に入ると、あひての人格の一部又は表象となる物を対象に据ゑて、此に呪言をかける(即、ことゝふ)事になつてゐる。
うけひ[#「うけひ」に傍線]の効果として現れるはずの「ほ」が、混乱して逆に当体の代表物を立てる法が、とこひ[#「とこひ」に傍線]・かしり[#「かしり」に傍線]の上に出て来る。とこはれ、かしられる当体の性質から見て「ほ」の変形と見る事は間違ひでなからうと考へる。大体うけひ[#「うけひ」に傍線]は「ほ」の側から見れば、二次的なものである。其「ほ」が積極消極両方面に現れて来たものが、段々不当不正の場合にばかり出現を乞ふ事になつたのであるが、かしり[#「かしり」に傍線]になると、再《ふたたび》形を変へて「ほ」が出て来る事になつた訣である。
おなじくかしり[#「かしり」に傍線]と言うても、とこひ[#「とこひ」に傍線]に近いものだと対照風のもの言ひを忘れて居ない。御馬《ミウマノ》皇子、三輪《ミワ》の磐井《イハヰ》の側で討たれる時、井を指して詛した語は「此井は百姓のみ唯飲む事を得む。王|者《ハ》飲むに能はじ」と言うたと言ふのが其である。
椎根津彦と弟猾《オトウカシ》とが香具山の土を盗んで来て種々の土器を作つて、天神地祇を祭つた条に、「譬はゞ水沫《ミナハ》の如く呪《カシ》り著くる所あり」と言ふのは、単純な祭器を作る為ではなかつた。香具山の土は倭宮廷の領土の象徴ととり扱はれたのである。「武埴安《タケハニヤス》彦の妻|吾田《アタ》媛密かに来て倭の香具山の土を取り領巾《ヒレ》に裹《ツヽ》み、『是は倭の国の物実《モノザネ》(又ものしろ[#「ものしろ」に傍点])と祈《ノ》み曰ひて乃ち反りぬ」とあるのも、国の呪《カシ》りの為に土を持つて行つたのであつた。だから土を盗みに行くに先つて、神の訓へた言には、「宜しく天の香具山の社の中の土を取りて、天《アメ》[#(ノ)]平※[#「扮のつくり/瓦」、第4水準2−81−13]《ヒラカ》八十枚《ヤソヒラ》を造り、并せて厳※[#「扮のつくり/瓦」、第4水準2−81−13]《イツベ》を造りて、天神・地祇を敬祭し、亦|厳《イツ》の呪咀《カシリ》をせよ。此の如くせば則、虜自ら平伏せむ」とある亦の字の用法が、土を呪《カシ》りの対象にした事を示すと共に、香具山の動植物を神聖視するに到つた径路を見せてゐる様である。だから、祭器を作つたと言ふのは、合理的な説明と見てよい。
人をかしる[#「かしる」に傍線]為に、様々の物を用ゐてゐる中、秋山下冰壮夫のかたみ[#「かたみ」は罫囲み](身代り)として、出石川の河の石を塩にまぶし、出石川の竹の葉に包み、其竹で造つた八目《ヤツメ》の荒籠《アラコ》に入れて、此竹葉の萎むが如青みしぼめ。又此汐の満ち干る如満ち干よ。又此石の沈むが如沈みこやせと咀言して烟《カマド》(?)の上に置かしたと言ふのが著しい例である。
此かしり[#「かしり」に傍線]の呪文を見ると、全くかたみ[#「かたみ」は罫囲み]を以て「ほ」と一つに扱うてゐるではないか。かしる[#「かしる」に傍線]の語原は知れぬが、選択を神に任せる対象的のとこひ[#「とこひ」に傍線]から一転したものなる事は明らかである。かしりつく[#「かしりつく」に傍線]事が受け身にとつてはまじこる[#「まじこる」は罫囲み]で、之を却ける法を行ふ事を、まじなふ[#「まじなふ」は罫囲み]と言うたらしい。語原まじ[#「まじ」は罫囲み]は、蠱物の字面に当る鳥・獣・昆虫類の人に疫病を与ふる力を言ふのであるが、之を使ふ側をも、後にはまじなふ[#「まじなふ」に傍線]と言ふが、始めは防ぐ方を言うたと考へられる。此点かしり[#「かしり」に傍線]とまじなひ[#「まじなひ」に傍線]との違ふ所である。尚一つ違ふ点は、庶物の精霊を術者が役すると言ふ所に在るらしい。
此等の語の代表語とも言ふべきのろふ[#「のろふ」は罫囲み]と言ふのは、平安朝の用語例で見ると、語根に既に呪咀の義がある様に思はせる「のろ/\し」など言ふ語がある。けれどものろふ[#「のろふ」に傍線]の分化した意義ばかりしか残らなかつた時代に、出来た新語の語根に、逆に呪咀の義を感ずる様になつてゐたと見るべきであらう。のろふ[#「のろふ」に傍線]がさうした分化を遂げるには、罵《ノ》る・叱《ノ》るなどの悪し様に言ふと言つた用語例が助けてゐる事であらう。まじなふ[#「まじなふ」に傍線]だけが少し違ふが、うけふ[#「うけふ」に傍線]以下皆一類の語で呪文が悪用せられて行く傾向を見せてゐる。同時に、「ほ」の出現を問題にせなくなつて来る。「ほむ」と「ほぐ」とに違ふ所があるとしたら、「ほむ」にはおだてる[#「おだてる」に傍線]意を持つて来てゐる事である。此点は、ねぐ[#「ねぐ」は罫囲み]も共通であつた。「ねぐ」の最初から願ふ義でなかつた事は、「ねぎらふ」の語根なる「ねぐ」と同根なる事である。「すめら吾《ワ》がうづのみ手もちかき撫でぞねぎ給ふ。とり撫でぞほめ給ふ」など言ふのは、唯の犒ひではない。対句としての意味の近似性を中心にして、其に「ねがふ」の語根である事を併せて考へると、義は大分変つて来る。まだある勤労を致さない先から「ねぎ給ふ」と言うてゐるので見ると、どうしても労力の結果に対する予め褒める誇張的な表現の語を言ふのに違ひない。「お前はえらいから、うまくするに疑ひがない」など言ふ風なのが、ねぐ[#「ねぐ」に傍線]の本義らしい。上の詔勅は其用語例が倫理観を伴うて来てゐるが、古意はそこにあるので、禰宜《ネギ》と言ふ語も、ほんとうに訣つて来るのである。語根のね[#「ね」は罫囲み]はほかで説く(索引参照)が、ほぎ人[#「ほぎ人」に傍線]・ほがひゞと[#「ほがひゞと」に傍線]などゝ同様の成立を持つて居るのである。神・精霊をねぐ[#「ねぐ」に傍線]人なのであつた。「願ふ人」の意ではない事が知れる。
ほむ[#「ほむ」に傍線]も讃美・褒賞の義を分化する道筋を考へて見ると、現状以上の理想的な結果を誇張して言ふ義を含んでゐたのである。即幾分ほぐ[#「ほぐ」に傍線]よりは、新しく「ほ」なる語根の意識が変化してからの事と思はれる。後に言ふ「ほがひ」の人々に似た職業の「ほめら」と言ふ部落が四国吉野川の中流以下の地方にある。此は「ほめなむ」「ほめようよ」など言ふにおなじ方言で、此等の職業人が、家々に来て「ほめら/\」とほめさせてくれと要求した為の名で、近世風の者ではあるが、ほぐ[#「ほぐ」に傍線]に近いほむ[#「ほむ」に傍線]のなごりの固定したものと考へる。「まけ柱ほめて造れる殿の如、いませ。母刀自|面《オメ》変りせず」(万葉巻二十、四三四二)は真木柱より其を建て、其様にゆるぎなかれとほぎ言して造つた殿と言ふので、ほぐ[#「ほぐ」に傍線]と殆違はぬ時代の用例である。「ほ」を語根とした語と見えるものに、今一つある。
日本紀の一書に見えるもので、「凡《スベ》て此《コヽ》に諸物皆来聚しき。時に、中臣の遠祖|天《アメノ》児屋命則以|神祝祝之《カムホサキホサキキ》神祝々之。此[#(ヲ)]云[#(フ)][#二]加武保佐枳保佐枳々[#(ト)][#一][#「神祝々之。此[#(ヲ)]云[#(フ)][#二]加武保佐枳保佐枳々[#(ト)][#一]」は1段階小さな文字]」とあるほさく[#「ほさく」は罫囲み]と言ふ動詞があつた様に見える事である。谷川士清はその書紀通証に、今も言ふ「ほざく」と言ふ語の元と言ふ思ひつきらしい説を記しつけてゐる。なるほど託宣から出て、「御託《ゴタク》を並べる」など言ふ類もあるから、一概に否定は出来ない。但し其には、近世まで文献に現れる事なく「ほさく」と言ふ語が、庶民信仰の上に行はれて居たと見ねばならぬ。此点は、千数百年間の空白を補ふ用例の出る時まで断言は預つて置く。
さう見られなくもない事は、古い祭文の芸術化(索引ほがひゞと[#「ほがひゞと」は罫囲み]参照)した側から考へられる事実があるのである。其由緒を陳弁する方面から「ほざく」を悪い意味に使ふ様になつたと見られる。其と共に「ふざける」と言ふ語原不明の近代語も、ほがひゞとの「おどけ祭文」の側から言うたものと見ることも出来さうである。「ことほぎ」を「こどき」と言うた事は其条に述べたが、此も亦、祭文として芸術化したものと見れば、後世の「口説《クドキ》」と言ふ叙事風な語り物の本義が知れるのである。「くど/\」など言ふ副詞の語根「くど」から動詞化した「くどく」と言ふ語と同根と見、男女間のくどき言が多いからと考へて来たのは、実は間違ひかも知れない。口説《クドキ》の中に男女間の口舌《クゼツ》や妄執・煩悶ばかりを扱はぬ純粋な叙事詩もあるのである。さうすると、こどき[#「こどき」は罫囲み]と言ふ語も文献に現れないで、民間信仰の上にくどき[#「くどき」は罫囲み]と音韻の少しの変化した儘で、曲節が伝つて居り、さうした節まはしに謡はれる詞曲はすべて、「くどき」と言ふ名に総《す》べられたと見られる。さすれば、「ほざく」の説もなり立ちさうである。
唯万葉にも一箇所「ほさく」らしいものがある。「千年保伎保吉とよもし」(巻十九、四二六六)と言ふのであるが、鹿持雅澄は伎は佐の誤字として「ほさきとよもし」と訓んだ。宣長が「ほぎほぎとよもし」が「ほぎきとよもし」となつたのだとした説を修正したのである。宣長説も理窟は立つてゐるが、雅澄の方が正しいと思はれる。さて「ほさく」と言ふ語があつたとすると其語源の考へが、「ほ」の議論に大分大きな影響を与へさうである。私の考へでは、ほぐ[#「ほぐ」に傍線]・ほむ[#「ほむ」に傍線]の外に今一つ「ほす」と言ふ語があつて、其を更に語根として、「ほがふ」同
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