しますとて卜ふるに、神の心出で来たり。……」と言ふ風にあるべき処である。して見れば、「……にたゝる[#「たゝる」に傍線]」と言つた語法は、其以前から保存せられたものと見てよい。十握の劔を「ほ」として出現せしめられた、古い形の「たゝり」は「ほ」と言ふ語で表すべきものであつて、単に現象のみならず、ある物質をも出したのが、次第に一つの傾きに固定して来たのであつた。
此序《このついで》に言ふべきは、たゝふ[#「たゝふ」は罫囲み]と言ふ語である。讃ふの意義を持つて来る道筋には、円満を予祝する表現をすると言ふ内容があつたのだとばかりもきめられない事である。「たつ」が語原として語根「ふ」をとつて、「たゝふ」と言ふ語が出来、「神意が現れる」「神意を現す様にする」「予祝する」など言ふ風に意義が転化して行つたものとも見られる。さう見ると、此から述べる「ほむ」と均しく、「たゝふ」が讃美の義を持つて来た道筋が知れる。だから、必しも「湛ふ」から来たものとは言へないのである。
忽然として「ほ」の出現するといふ思想は、後世まで一夜竹流の民譚を止めてゐる。一夜にして萩の生えたと言ふ播磨風土記の話も、一晩の中に山の出来たと言ふ伝へも、皆此系統である。「ほ」に就いての信仰生活が忘却せられた後に、唯ゆくりなく物の出現したと言ふ姿に固定したのだ。
ほ[#「ほ」は罫囲み]を語根とした動詞が、ほぐ[#「ほぐ」は罫囲み]であり、又ほむ[#「ほむ」は罫囲み]と言ふ形もある。ほぐが語根化して再活用すると、ほがふ[#「ほがふ」は罫囲み]となる。普通の用語例からつきつめてゆくと、「ほぐ」は優れた神が精霊に向うてする動作らしく思はれる。併し「ほ」と言ふ語から見れば、元庶物の精霊が「ほ」を出すと言ふ義であつたらしい。其が出させる方の動作に移して言はれる事になつて来る径路は考へ難くない。精霊の示す「ほ」を出させると言ふ方面から見れば、やはり「ほ」を出すと言ふ事になる。「ほ」の原義は知れないが、「うら」と似た筋路に立つ事を思へば、末《ウラ》・梢《ウラ》・表《ウラ》(うら<うれ)同様、秀《ホ》の義だとも言へる。表面・末端の義から、さうした出現形式に言ふのだと説けばわかる。秀《ホ》の意義なども、逆に「ほ」の影響を受けて、愈《いよいよ》著しく固つたらうと言ふ事も考へねばならぬ。精霊の「ほ」を現す事が、大きく見て常世神の動作に移して考へられ、其が段々人間の行動らしくなつて来ると、「ほ」を乞ふと言ふ様な意義をも通つて来た事であらう。
ところが、信仰様式が易つて来ると、「ほ」の有無は別問題になつて、占ひの方面を分化する。其と共に「ほぐ」と言ふ語も、呪言の効果の有無と言ふ側の内容を持つ事になる。神から伝誦した呪言の威力によつて、精霊を其詞に感染させ、誘導すると言ふ義から出で、更に精霊に対して、ある結果を予約すると言ふ内容を持つ事になり、はては、祝詞の詞を、陳べると言ふ様になつて来たのである。文献はじまつてからの「ほぐ」は、どうかすれば、一様に祝福する意に見られる傾きがある。よく見ると「ほ」の観念は鮮やかに残つてゐる。酒《サカ》ほがひは元酒の出来あがる様に呪言を唱へる事ではなかつた。一夜酒の出来方を、「ほ」と見て人の健康を祝福したのである。大歌《オホウタ》の中の本宜《ホギ》歌なども、日本の地で子を産まぬ雁の卵を見て「ほ」と感じ、「ほ」を見て後に唱へた一種の呪言的の歌である。此「ほ」の考へ方などはやはり数次の転化は経て来てゐるので、呪言によつて現れる筈の「ほ」を、逆にまづ不思議な瑞祥に対して「ほ」の印象を強く受け、その上で「ほ」の効果を強めようとして謡うた歌なのである。
「うけひ」が一転すると、「ちかひ」になる。此も語原の知れぬ語である。併し考へて見れば、「とこひ」と言ふ形の語根と tik(=tok)を共通してゐる。うけふ[#「うけふ」に傍線]が後に咀《ノロ》ふの内容を持つて来た様に、此も、音韻の変化と意義分化とが並び行はれて、誓ふと咀《トコ》ふとの相違を生じる事になつたと類推する事が出来さうである。その上、「ちぎる」と言ふ語とも関係がある。ちぎる[#「ちぎる」に傍線]は約束者両人の合意上とる形式的な方法と観られてゐるが、単なる指きり・口固め・語|番《ツガ》への様なものでなく、神を中に立てゝの誓約であつたらしい。後期王朝になつて其用語例が著しく微温化してしまうたが、唯の契約ではない事は察せられる。かうして分化してしまうたが、元は一つであつたに違ひない。
うけひ[#「うけひ」に傍線]は神を試すといふ基礎に立つて、神意の自由発動に任せながら、神の意向を確める事を中心にして、転じて神判など乞ふ場合にも用ゐてゐる。ちかひ[#「ちかひ」に傍線]になると、著しく変つて来る点は、故意に神意の表現を迫る態度を含んでゐる。うけひ[#「うけひ」に傍線]の中、神判を待つ態度のものは既に、ちかひ[#「ちかひ」に傍線]の要素を顕して来たものである。此誓言は偽りでない。若しも嘘であるなら、どんな不思議な結果でも、神が表して見せるであらう。かうした考へに立つて居るのである。うけひ[#「うけひ」に傍線]の場合にも、いろ/\むつかしい「ほ」を乞ふ習慣があつた。其観念を更に誇張して来たのであるから、ちかひ[#「ちかひ」に傍線]に殆ど、不可能な「ほ」の現れを約する事に成るのである。が最注意せねばならぬ点は、将来の現象を「ほ」としようと約したかどうかと言ふ処である。今日残つた文献の上のちかひ[#「ちかひ」に傍線]の詞は、大抵この言に偽りあらば、今後……言ふ風になるだらうと言うた風に見えるが、実はさうではなかつた。此誓言に対しては、神が責任を負うてゐる。目前[#「目前」に白丸傍点]現状を覆す様な現象が起るであらう。かうした表現法なので、神を中介とする時には虚言は出来ぬと言ふ信仰の基礎に立てばこそ、こんな方式も認められてゐたのである。神罰至つてみせしめ[#「みせしめ」に傍点]に不思議な有様を現じるだらうとするのは、後の考へ方である。まして天罰をかけて起請する様なのは、遥かに遅れての代の事であつた。後世の考へ方から見れば、むつかしい「ほ」をかけておけば、却つて偽りに都合のよい様に見える。現代尚屡、行はれる歯痛のまじなひ[#「まじなひ」に傍線]で、「此豆に芽の出るまでは、歯の虫封じを約束しました」と言つた風の言ひ方で、煎り豆を土に埋める様な風習も、単に神を所謂|詭計《オコワ》にかける訣でなかつた。「煎り豆に花の咲くまでは、下界に来るな」と鬼を梵天国に放つた百合若伝説が、稍古い形を見せてゐる。つまり誓ひの方式が、変化したのである。うけひ[#「うけひ」に傍線]の神意を試すところに立脚してゐる処から出て、其に加つて来た神に対する信頼の考へが、どんな事でも神力で現れない事はないとするからである。
神功皇后三韓攻めの時、新羅王のなした誓ひの詞は、日本人としての考へから言うてゐるのだから、此証拠に見てもよい。「則、重ねて誓ひて曰はく、東に出づる日更に西に出で、且、阿利那礼河《アリナレガハ》の返りて逆に流るゝ除《ホカ》は、及び河の石昇りて星辰と為るに非ずば、殊に春秋の朝を闕き怠りて梳鞭の貢を廃《ヤ》めば、天神地祇共に討《ツミ》し給へ」とある。逆に書かれてゐるので、「日本国の為に忠実ならずは、目のあたり日西に出で、ありなれ河逆に流れむ。されど若し向後懈怠ある時は、わが誓言を保証し給ふ神祇罰を降し給ふも異存なし」とあつたはずなのである。
齶田《アキタ》の蝦夷がした「私等の持つて居ます弓矢は、官軍の為のものでなく、嗜きな野獣の肉を狩り獲る為です。若し、官軍の為に、弓矢を用意したら、齶田の浦の神が知りませう。……」と誓うたのや、「思はぬを思ふと言はゞ、真鳥栖む雲梯《ウナテ》の杜《モリ》の神し断《シ》るらむ」(万葉集巻十二、三一〇〇)とあるのなども一つで、神罰を附けて語の偽りなきを証するのは、やはり古意ではなかつた。
発想法が後世風になつて居ても、新羅王の誓言の「天神地祇共に罪し給へ」とあるのは、「罪し給はむ」と言はぬ処に古意がある。「君をおきて、他心《アダシゴヽロ》をわが持たば、末の松山、波も越えなむ」(古今東歌)。此歌常識風に漠然と、波の越える山だからと感じもし、解釈もせられて、末の松山浪越し峠など言ふ地名もあり、地質の上から波の痕跡ある陸前海岸の山を、其と定めたりして居るのは、とんだ話である。其でなくとも単に、「末の松山を浪の越えざる如く」と比喩に解してゐる説もある。だが、此は恋の誓ひの古い形で、波の被《カブ》さりさうもない末の松山を誓ひに立てゝ来た処に意味があるのである。而も越えなむ[#「越えなむ」は罫囲み]と言ふ語も、「誓ひに反いたら波が越えるだらう」と将来に対する想像的な約束ではない。此場合のなむ[#「なむ」は罫囲み]は、動詞第一変化につく助辞で、希望の意を示すものだ。だらう[#「だらう」に傍線]を表す第二変化につく助動詞ではない。「越えてくれ」「越えてほしい」と言つた意で、従つて上の「我が持たば」も将来持たばでなく、「持てらば」の時間省略で、「持つてるものなら」と言ふ事になる。「この誓言本心を偽つて居るものなら、この陶《スヱ》の地の松山其を、波が越えてみせてくれ」と言ふ意である。かうした処から、比喩を立てゝ「あの物のあゝしてある限りは、言は違へまい」と言ふ新羅王風のになるか、「あの物がわたしの心のしるしだ」と言つた風の言ひ方になる。「鎌倉のみこしがさきの岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ」(万葉巻十四、三三六五)は、単なる修飾ばかりでなく、物を誓ひに立てゝ、心の比喩にする風の変形である。おなじ東歌で、古いものゝ方が新しいものよりも、変化した形をとつて居るのも、民間伝承学の上から見れば、不思議はない。
誓ひは神を偽証人とせない事を本則とするのだが、神の名を利用して人を詐く者が出て来る様になつて来る。日本紀の一書にも、ほのすせりの[#「ほのすせりの」に傍線]命が、ほゝでみの[#「ほゝでみの」に傍線]命に「我当に汝に事へまつりて奴僕たらむ。願はくは救ひ活けよ。」と言うて置きながら、潮が干ると前言を改めて、「吾は是れ汝の兄なり。如何にぞ、人の兄として弟に仕へむや」と言うて、再び潮満つ珠の霊力で苦しめられる話がある。新しい様式に交つて古い様式の遺つて行くのが常であるから、此話なども誓ひに対する新しい心持ちを見せて居るのである。だから、天罰を背景にして誓ひをする風が行はれて来る。天智紀(十年十一月)の内裏西殿織仏像の前の誓盟[#「誓盟」に白丸傍点]は其である。「……大友[#(ノ)]皇子手に香炉を執りて先起ちて誓盟して曰はく、六人(赤兄・金・果安・人・大人及び皇子)心を同《トモ》にして天皇の詔を奉《ウ》く。若し違ふことあらば、必天罰を被らむ……左大臣蘇我赤兄[#(ノ)]臣等手に香炉を執りて、次《ツイデ》に随うて起ち、泣血し誓盟して曰はく、臣等五人殿下に随ひて天皇の詔を奉く。若し違ふことあらば、四天皇打ち、天神地祇亦復、誅罰せむ。三十三天、此事を証知せよ。子孫当に絶ゆべく、家門必亡びむ……」と言うて居る。此は必しも仏法の儀礼に拠つたものではない。大体奈良以前から、此処まで信仰様式が変つて来て居たのである。欽明紀(二十三年六月)を見ても、馬飼《ウマカヒ》[#(ノ)]首歌依《オビトウタヨリ》、冤罪を蒙つて「揚言《コトアゲ》して誓ひて曰はく、虚なり。実にあらず。若し是れ実ならば必天災を被らむ」と言うたとある。此揚言は既に原義から離れて来て居るが、神に対して発言する方法と見ればよい。つまり今言ふ語の虚か実かに対しての誓ひである。直接に罪に対して言ふのではない。此も天罰にかけて語の真否を誓うてゐるのである。後世ほど段々にその天罰にも細目を考へて来た。武家の天罰起請文の外に、身体の不具、業病を受ける事を以て、貧窮・離散・死滅などをかける。仏教の影響よりも、根原の種子が段々誇張せられて来た方面を考へなければならぬ。町人たちが「何々する法もあれ」と誓ふのを、武家の感化と見るのは現
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング