を執りて、次《ツイデ》に随うて起ち、泣血し誓盟して曰はく、臣等五人殿下に随ひて天皇の詔を奉く。若し違ふことあらば、四天皇打ち、天神地祇亦復、誅罰せむ。三十三天、此事を証知せよ。子孫当に絶ゆべく、家門必亡びむ……」と言うて居る。此は必しも仏法の儀礼に拠つたものではない。大体奈良以前から、此処まで信仰様式が変つて来て居たのである。欽明紀(二十三年六月)を見ても、馬飼《ウマカヒ》[#(ノ)]首歌依《オビトウタヨリ》、冤罪を蒙つて「揚言《コトアゲ》して誓ひて曰はく、虚なり。実にあらず。若し是れ実ならば必天災を被らむ」と言うたとある。此揚言は既に原義から離れて来て居るが、神に対して発言する方法と見ればよい。つまり今言ふ語の虚か実かに対しての誓ひである。直接に罪に対して言ふのではない。此も天罰にかけて語の真否を誓うてゐるのである。後世ほど段々にその天罰にも細目を考へて来た。武家の天罰起請文の外に、身体の不具、業病を受ける事を以て、貧窮・離散・死滅などをかける。仏教の影響よりも、根原の種子が段々誇張せられて来た方面を考へなければならぬ。町人たちが「何々する法もあれ」と誓ふのを、武家の感化と見るのは現
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