の国であつた。人々の祖々《オヤオヤ》の魂は常世の国に充ちてゐるものとした。其故に其魂が鳥に化し、時としては鳥に持ち搬ばれて、此土に来るものと考へられた。此が白鳥処女・白鳥騎士民譚世界的類型の基礎である。
我々の祖先は、時を期して来る渡り鳥に一種の神秘を感得した。其が大きな鳥であり、色彩に異なる所があると、更に信を増した。「たづ」と言はれる大鳥の中、全身純白な鵠《クヾヒ》は、殊に此意味を深く感ぜられてゐる。白鳥《シラトリ》は、鵠をはじめとして、鶴・鷺に至るまで、元は常世から来る神と見たのが、後遅く神使と見られて来たのは此故である。併しながら、渡り鳥の中殊に目を惹くのは、大群をなして来る雁である。雁を常世のまれびとゝ感じたのは、単に一時の創作ではなかつたのである。それで白鳥の富みを将来した話は、若干ある。豊後風土記の白鳥の飛んで来たのを見にやると、餅になつた。かと見る中再、芋数千株になつた。天子之を讃へて、天之瑞物・国の豊草と言はれたので、豊国といふ事になつたとある。白鳥と色々な物とが、互になり替る話が随分とある。餅が鳥になつた件は豊後風土記と山城風土記逸文とにある。宮古島旧記に拠ると、甘露壺が白鳥となつて空を行つた。此は富みの神であつて、主人が物忌みして待つて居ると、大世《オホヨ》(穀物)積美船《ツミアヤブネ》即宝船が来り向うたとある。八重山にも白鳥を神として見てゐる例が多い。内地ではやまとたける[#「やまとたける」に傍線]の白鳥に化した話は単純な方で、今昔物語では、妻女が弓に化し、更に白鳥に化してゐる。此は神と人と物との間に自在融通するものと考へて居たからであらう。が、鳥になり、人になりしてもまれ人と言ふ点に違ひなく、其が富みのしるしの草や、餅になる道筋も、新しい富みが常世から来るものとせられてゐた事を考へれば解釈がつく。
富み草と言ふ物を米に限る事は出来ないが、此も鳥の啄み来るものと考へてゐたらしい。常世の鳥でなくとも、雲雀が「天」に到つて齎すものと思うたのであらう。
おなじ「常世」を冠した鳥の中にも、「常世の長鳴き鳥」なる類だけは、海のあなたから来た長鳴きに特徴を持つた鳥といふのではなく、常世へ帰る神を完全に還るまで鳴きとほす鳥といふ意かと、今は考へてゐる。
邑落生活に於ける原始信仰は、神学が組織せられ、倫理化せられ、神殿を固定する様になつても、其と併《なら》んで、多少の俤は残らない地方はない程根強いものであつた。
常世からする神に対する感情は、寧「人」と言ふのが適してゐた。又、其が「人」のする事である事を知つて居たからかも知れない。我々の祖先は、之にまれびと[#「まれびと」は罫囲み]と命けた。思ふに「まれびと」は、数人の扮装した「神」が村内を巡行する形になつて居るのが普通であるが、成年者の人員が戸数だけあつたものとして、家毎に迎へ入れられて一夜泊つたものと思はれる。さうして其家の処女或は主婦は、神の杖代として一夜は神と起臥を共にする。扮装神の態度から神秘の破れる事の多い為に、「神」となる者の数が減り、家毎に泊る事はなくなつたのであらう。だから邑落生活に於ける女性は、悉く巫女としての資格を持つてゐなければならなかつた。
巫女の資格の第一は「神の妻《メ》」となり得るか如何と言ふ事である。村の処女は必神の嫁として神に仕へて後、人の妻となる事が許されたのである。後期王朝初頭に於いて、民間に設ける事を禁じた采女《ウネメ》制度は、古くは宮廷同様国々の豪族の上にも行はれた事なのである。邑落々々の現神なる豪族が神としての資格を以て、村のすべての処女を見る事の出来た風が、文化の進んだ世にも残つてゐたのだ。数多の常世神が、一つの神となつて、神々に仕へた処女を、現神一人が見る事に改まつて来たのである。而も、明らかに大きな現神を戴かなかつた島々・山間では、今に尚俤の窺はれる程、近い昔まで処女の貞操は、まづ常世神に献ずるものとして居たのである。初夜権の存在は、采女制度の時代から現代まで続いてゐると見てよい。「女」になるはじめに、此式を経る事もある。裳着は成女となる儀式である。形式だけだが、宮廷にすら、平安中期まで、之を存してゐた。
神の常任が神主の常任であると共に、巫女も大体に於いて常任せられ、初夜の風習も単なる伝承と化してしまふ。すると、巫女なる処女の貞操は、神或は現神以外の人間に対しては、厳重に戒しめられる事になる。即「人《ヒト》の妻《メ》」と「神の嫁」とは、別殊の人となるのである。かうした風の生じる以前の社会には、常世神の「一夜配偶《ヒトヨヅマ》」の風が行はれてゐたものと思ふ事が出来る。其一人数人の長老・君主に集中したものが、初夜権なのである。
常世神が来り臨む事、一年唯一度と言ふ風を守られなくなつた。一村或は一家の事情が、複雑になつて特殊の場合が多くなると、臨時に来臨を仰ぐ風を生じた。我が国の文献で溯れる限りの昔は、既に此信仰状態に入つて後の世である。其第一の場合は、建築の成つた時である。第二は、私の想像では、家の重な人の生命を安固ならせることを欲する時である。其外、年の始めに神の親しく予約した詞の威力の薄らぐのを虞れて、さし当つた個々の場合に、神の来臨を請うた事が多い様である。
尠くとも奈良朝以前に、其由来の忘られてゐたのは、新室[#「新室」は罫囲み]の祝ひの細目である。大体「新室」の祝ひであるべき事を、毎年宮廷では繰り返して、大殿祭《オホトノホガヒ》[#「大殿祭」は罫囲み]と称へてゐた。其唱へる所の呪言も、新室ほがひ[#「新室ほがひ」に傍線]と言ふ方が適切な表現を持つてゐる。大殿祭の儀式には、問題は多いが、此時夜に入つて、神の群行を学んで、宮廷の常用門とも見るべき西方の門扉をおとづれるのである。此神の一行と見るべきものが、宮廷の主人なる天子常用の殿舎だけを呪うて廻る。此式が、神今食・新嘗祭の前夜に行ふ事になつてゐるのは、古代は刈りあげ祭りの時に一度行うた事を示してゐる。即後世神の職掌分化して御歳《ミトシ》神と命けた「田の神」を祭る式の附属の様に見えるが、やはり此精霊を祀るのでなく、常世神を迎へたのであらう。なぜならば、大殿祭は、刈り上げ祭りの上に、新室ほがひ[#「新室ほがひ」は罫囲み]と家あるじの寿命に対する「よごと」を結びつけてゐるのである。単に田の神にする奉賽の新嘗の式と接近して行ひながら、別々に行うてゐるのは、新嘗の主賓たる常世神が感謝を享けると同時に、饗応の礼心に生命・住宅の安固を約して行くと考へた為であらう。生命・建築は、常世神の呪言の力を最深く信頼してゐるものなのである。大殿祭の式は要するに、新嘗の式の附属例に過ぎない。新嘗を享ける神が、最初の信仰からして、「田の神」でなかつた事を見せてゐるだけである。
「大殿祭」類似の毎年家を中心として、祝言を述べる行事は、宮廷だけではなかつたであらう。併し、「新室ほがひ」の変形で、常世の「まれびと」に事の序《ついで》に委託するのだといふ事はおなじである。宮廷の呪詞・寿詞の中、とりわけ神秘に属するものは発表しなかつたらうと言ふ事は、本編に述べるが、「新室ほがひ」の呪言及び、其に関係深い家々の氏[#(ノ)]上たる人々の生命呪《ヨゴト》は、唯二つしか伝つてゐない。だが、「新室ほがひ」の式は、必家あるじの外に主賓として臨む其家にとつては、尊敬すべき家の人が迎へられる。さうして其人が、「新室」を祝福する呪言を唱へ家の中を踏む。其外に舞ひ人としての家の処女又は婦人が、装ひを凝して舞ひ鎮める。其後、主賓は、其舞ひ人と「一夜づま」となる。かうした要点だけは、推察が出来る。なぜ、処女を主賓に侍らせるか、其は前期王朝の盛んな頃にも、既に、理会せられなかつた事であらう。
平安朝末から武家時代の中期にかけて、陰陽家の大事の為事の一つは、反閇《ヘンバイ》であつた。貴人外出の際に行ふ一種の舞踏様の作法で、其をする事を「ふむ」と言ふ。律の緩やかな脚を主とした一種の短い踊りである。支那の民間伝承と似ない点の少い我が風俗の中で、此などは殆ど類例のないものである。唯一外来説の根拠になつた范跋を起源とする説などは、到底要領を得ないものである。書物以外に似た俗はあるだらうと思ふが、此は在来の民間伝承を安倍・賀茂両家で採用したものと思ふ。外出の際に踏むに限つて居ないで、外出先でも踏む。家に還つても踏む。一種の悪魔祓ひの様に考へられて来たのである。此風は予め、悪霊の身につく事を避ける力あるものと言ふ考へを基礎として居る様だが、外出の為でなく、居つく[#「居つく」に傍点]為の呪術である。「ふむ」行事を行うた処には、悪霊が居なくなると言ふ考へから出たもので、外出先で行うた僅かな例の方が、寧古風なのである。其が固定して、外出に踏むと言ふ考へから、途中から邪気を持ち返る事を防ぐ効験あるものと考へる様になつた次第である。
神の脚によつて踏みとゞろかされた地には、悪精霊が居る事が出来ない上に、新に来る事もしない。其で新室に住む始めに、神に踏み固めて貰ふのであつた。「新室を踏静児《フミシズムコ》」など言ふのは、舞ひ人の処女の舞踏にも威力を認める様になつたからであらう。足踏みの舞踏を行ふ事は、ある地を占める為である。目に見えぬ先住者を退散させる事である。今も土御門流の唱門師の末などで、反閇を踏んで、家の悪霊退散の呪ひをする者がある。反閇は一種の「大殿祭」の様なもので、「新室ほがひ」の遺風であらう。
新室の住みはじめに、なぜ貴人を招待するか。此古い形は、村々の君として、神の力を持つた人を招いた事があつたからである。文献は語らぬが、其前に若衆の中の一人が、仮装神として臨んだ事も推察出来る。
古代生活で、「まれ人」とおなじ尊さの人を迎へる事の出来たのは、「新室ほがひ」の時であつた。其で、神と言ふ意味を離れて、まれびと[#「まれびと」に傍線]が明らかに「人」の意識を持つ事になつた。だから人なるまれびと[#「まれびと」に傍線]に対する家々の態度は、やはり神であつた時代の風俗を長く改めなかつた。今もその姿を残してゐる。まれびと[#「まれびと」に傍線]には、その家の処女か其がなくば、主婦を出して、滞在中は賓客の妻とせねばならなかつた。王朝を通じて都の官人が地方人の妻女に対して理不尽と見える行ひをして居たのは、地方人が都の貴人の種《シユ》を家の血の中に容れようとしたからと解するのは、結果から言ふ事である。今も其遺風を持ち伝へてゐる島々はある。鳴門中将の二様の伝へや、源氏物語中、川の宿りの条なども、後世から見て単に貴顕の威に任せたものと見るのは、真の理会ではない。
あるじ[#「あるじ」は罫囲み]と言ふ語も、実はまれびと[#「まれびと」に傍線]の対語としてあるので、唯の主人と言ふことではない。主人として馳走をするから、饗応をあるじまうけ[#「あるじまうけ」に傍線]と言ひ略して、あるじ[#「あるじ」に傍線]と言ふと解して来たのもわるかつた。今少し広く喰ひ物から喰ひ物の進め主までを含めて言ふ語であつたらうと思ふ。はつきり知られるのは、珍客を迎へたときに限つて言ふべき語で、家主《イヘヌシ》など言ふ平常の用語例とは別な事である。裳着の条の註に引いた「尊者の大臣」は実は「まれびと」の宮廷風の訳語で、近代の正客に当るが、座中の最尊者と言ふ単純な意義ではない。宴会に客の中から尊者を選ぶのではなく、予め尊者を定めて其尊者の為に宴を設けると言ふ形をとるのが正しいのである。大臣大饗に尊者として招かれる左大臣などは、まれびと[#「まれびと」に傍線]の沿革の中に際だつて目につく事実である。此も身祝ひにまれびとを招じた風が、宮廷生活の上に新任披露の先輩招待式の様な形をとつたのである。此時の尊者なる左大臣の物の喰ひ様にはやかましい方式が出来た様であるが、「まれびと」としての仮装神の喰ひ方が自ら固定して来たものと見る事も出来る。
近代婚礼の座にばかり出る様になつた島台は、賓客にも出す洲浜《スハマ》・蓬莱台で、宴席の飾りの様に見える。けれども、正式には神の居る座敷に据ゑる物で、
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