私は此も本義に於ける「まれ人」を待つ心の一変形だと考へてゐる。
年にまれなおとづれ人を待ち得ぬ我々は、「庭にも やどにも、珠敷かましを」を単なる追従口と看過し易い。此は誇張でもない。支那風模倣でもない。昔の「まれびと」に対しての考へ方を、子孫の代の珍客に移したのに過ぎぬのである。
まれびと[#「まれびと」は罫囲み]とは何か。神である。時を定めて来り臨む大神である。(大空から)或は海のあなたから、ある村に限つて富みと齢《ヨハヒ》とその他若干の幸福とを齎して来るものと、その村々の人々が信じてゐた神の事なのである。此神は、空想に止らなかつた。古代の人々は、屋の戸を神の押《オソ》ぶるおとづれと聞いた。おとづる[#「おとづる」は罫囲み]なる動詞が訪問の意を持つ事になつたのは、本義音を立てるが、戸の音にのみ聯想が偏倚したからの事で、神の「ほと/\」と叩いて来臨を示した処から出たものと思ふ。戸を叩く事について深い信仰と、聯想とを持つて来た民間生活からおしてさう信じる。宮廷に於いてさへ、神来臨して門を叩く事実は、毎年くり返されて居た。
其神の常在る国を、大空に観じては高天《タカマ》[#(个)]原《ハラ
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