、神の声色を使うて家々を廻るのである。海のあなたから渡来した神に扮して居る訣である。村人も此秘密の大体には通じて居ながら、尚仮装したまやの神なる若衆の気分と同様、遊戯の分子は少しも交らぬ神聖な感激に入る事が出来るといふ。併し、段々厳粛な神秘の制約が緩んで来ると、単なる年中行事として意味は忘れられ、唯戸におとづれる[#「おとづれる」に傍線]音ばかりを模して、「ほと/\」など言うて歩く。徒然草の四季の段の末の「東ではまだすることであつた」と都には既に廃れた事を書いた家の戸を叩いて廻る大晦日の夜の為来りが、今も地方々々には残つて居る。此は、柳田国男先生が既に書かれた事である。
常世の国は、我が記録の上の普通の用法では、常闇の国ではない。光明的な富みと齢の国であつた。奈良朝になると、信仰の対象なる事を忘れ実在の国の事として、わが国の内に、こゝと推し当てゝ誇る風が出て来た様である。常陸を常世の国だとしたのも其一例である。唯海外に常世を考へる事は、其から見れば自然である。田道間守《タヂマモリ》がときじくの―かぐのこのみ[#「ときじくの―かぐのこのみ」に傍線]を採りに行つたと伝へのある南方支那と思は
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