発語を惜しんで、唯|一言《ヒトコト》を以つて答へると称せられた一言主《ヒトコトヌシ》[#(ノ)]神の様なのさへあつた。後世短歌の上の頓才問答の様になつた「鸚鵡がへし」の如きも、恐らく起原はこゝに在るものと考へる。尤、直に此等の言語遊戯が出来たのではなく、数次の変転を経て居るには違ひないが、大体の起原は此処に在るものと見てさしつかへはない。此等は皆其端を、神語発生以後に発して居る。私の考へでは、旋頭《セドウ》歌・片哥《カタウタ》もやはり、此意味から出てある完成を示したものである。順序として、まづ「神語《カミゴト》」の初期の模様を語らねばならぬ。
神にして人語を発する者あるは、海のあなたより時を定めて来り臨む常世神《トコヨガミ》にはじまる(「まれびと[#「まれびと」に傍線]ととこよ[#「とこよ」に傍線]と」参照)。此神は元々人間と緻密な感情関係にあるものと考へてゐた為に、邑落生活を「さきはへ」に来る好意を持つと信ぜられてゐたのであつた。事実に於いて、常世神の来訪は、ある程度の文化を持ち、国家意識が行き亘つて後までも行はれてゐたのである。神々が神言を発する能力を持つてゐると考へる様になつたのは、当然である。
其為に時としては却《かへつ》て逆に、古い世にこそ、庶物の精霊が神言をなしたものとすら考へる様になつた。「磐《イハ》ね」「木《キ》ねだち」「草のかき葉」も神言を表する能力があつたとする考へが是である。我が古代の言語伝承に従へば、之をことゝふ[#「ことゝふ」は罫囲み]或はことゝひ[#「ことゝひ」は罫囲み]すると称へてゐた。併しながら「ことゝふ」なる語の原義に近いものは、唯発言する事ではなかつた。「言ひかける」と言ふ原義から出て、対話或は問答を交へると言ふ義も持つてゐたらしい。「しゞま」を守るべき庶物の精霊が「ことゝふ」時は、常に此等の上にあるべき神の力が及ばぬ様になつてゐる事を示してゐる。即《すなはち》神の留守と言つた時である。其時に当り、庶物皆大いなる神の如くふるまふ状態を表すのである。だから、巌石・樹木・草木の神語を発するのは第二次の考へ方で、此等皆緘黙するものとしたのが、古い信仰だつたのである。事実庶物の精霊の発語することは、後代却て不思議とせぬ所である。伝襲を役としてゐる律文類では、枕詞一類修辞法の様に「言とはぬ木すら」など言ふが、其根本必しも岩石草木に限らず、地
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