導いた訣なのだ。律語形式が神語の為に択ばれたのではなく、神語なるが為に、律文式発想を採らなくてはならなかつたのである。
律語形式の発生を語る前に、「神語」のいまだ発せられない時期に於ける、神の意思の表出法に就いて考へなければならぬ。なぜならば、神語が行はれる時代が来ても、其以前の表出法が交錯して現れるからである。
わが祖先の用ゐた語にしゞま[#「しゞま」は罫囲み]と言ふのがある。後期王朝に到つては、「無言の行《ギヤウ》」或は寧「沈黙遊戯」と言つた内容を持つて来てゐる。此語が、ある時期に於て、神の如何にしても人に託言せぬあり様を表したのではあるまいかと思はれる。神語が行はれる様になつてからの語であらうが、其以前真に神の語らぬ時期にも、用語例を拡充する事が便利である。
神が、原始的のしゞま[#「しゞま」は罫囲み]に於いて、どう言ふ発想法を採つたか。ある時代の後に、ほ[#「ほ」は罫囲み]なる語で表したと思はれる所の、象徴を以て、我々の祖先は神意の表現せられたものと信じてゐた。(「ほ・うら」の論参照)
現象を以て神意の象徴せられたものと考へ、気分的に会得すべき象徴を、合理的に解決しようと努める様になつて、ほ[#「ほ」は罫囲み]は神語の比喩表現と解釈せられる事となつた。かう言ふ現象の起るのは、神が如何なる意思からするのであらうと言ふ考へ方が一転して、此問題に対して、神はかうした現象を示した、此現象の示す所は、どうであるかと考へる様になる。第一歩は原因を考へるのであるが、此に到つて結果を問ふ形になる。此まではまだ象徴であるが、次には現象のみならずある物体が不意に出現し、或はある変化が個物の上に起る事があると其処に、神意の寓つてゐる事を信じる。此時期に居ると、象徴観の外に、比喩的解釈法を採る事になる。厳密に言へば、象徴時代のなごりがむた[#「むた」は罫囲み]で、比喩時代に入つてほ[#「ほ」は罫囲み]と言ふ語が出来たのではないかと思ふ。
神語が行はれる様になつても、神によつては尚「しゞま」を守るものがある。又時によつて「しゞま」の形を採る事もある。「しゞま」を破りながら尚且、其とおなじ効果を持つ象徴或は、比喩風の神語を言ふ事もある。此様式が「何曾《ナゾ》(謎)」を生み、暗喩の遊戯「大和詞」逆発想の「入間様」を生む導きになる。其外、言語遊戯の此から出たと思はれるものが多い。又、極めて
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