敬語と全然別なものとは考へず、両方一つにして気分を混淆させてゐたこともあつた。唯実際使ふ時に、生得の敏感から、この二種をはつきり[#「はつきり」に傍点]感じわけて居た。とは言へ、一旦此がこみ入つて来た場合は、混乱させない訣にはいかなかつた。これも狂言に、その例が多い。尤、実際の対話には、この類は、数限りもない訣であつた。
 すかい[#「すかい」は太字] すけん[#「すけん」は太字]
敬語「す」は、敬語の古格によることが多く、敬語的発想を保つ地方の多い九州では、まだ失はれないでゐるものが沢山ある。たとへば、他の地方で、「行きなさるから」「お行きだから」「行かつしやるから」など、色々な言ひ方をする場合にも、「行かすけに」「行かすけん」と言ふのを聞くと、実際耳の洗はれた感じがする。
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あしたから隊長さんにならすけん……  小説「散歩者」
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これは、熊本山鹿地方の例であるが、九州は大体これで通じるやうである。作者木村祐章は、山鹿町の人で、山鹿であつたことのやうに書いた作品に「けん」「すけん」「すけんで[#「で」に白丸傍点]」の類、幾十の使用例がある。けん[#「けん」に傍線]はけに[#「けに」に傍線]・からに[#「からに」に傍線](=から)で、基礎になつたものは、「から」(故)であり、「け」である。「あらつしやるから」「なさるから」に当るのが、「すけん」なので、まづす[#「す」に傍線]とけん[#「けん」に傍線]は必しも密著してはゐない。其でも、九州方言の傾向として、敬語でなくてもよい所にも、又敬語を要せぬものにも使ふ所から、軽卑な待遇法が出来てゐる。此は軽親語とでも言ふべきで、敬語式に用ゐた「行きある」「取りある」が、ユキヤル・トリヤルとなり、もつと近代方言風には、トリヨル・ユキヨルとなるやうな類である。だから其す[#「す」に傍線]は極めて微量な敬意を示し、話し口《クチ》の柔軟《ナド》やかなことの為に遣つてゐるやうにさへ見えるが、而もす[#「す」に傍線]は丁寧法即対話敬語となりきつてゐる訣ではない。けん[#「けん」に傍線]は正確に言へば、けに[#「けに」に傍線]であつて、此二つは並行しておなじ地方に行はれることが多い。中国・四国に最有力だが、時には遥かに飛んだ地方にも行はれてゐる。けに[#「けに」に傍線]を経過して其まゝ「き」になつたのか、又別に、かい[#「かい」に傍線]から出直したのか、高知・徳島飛んで加賀・能登などのきに[#「きに」に傍線]がある。此は恐らくけに[#「けに」に傍線]の系統であらう。別に京都に後出した語と考へられるさけいに[#「さけいに」に傍線]がある。此はかいに[#「かいに」に傍線]から出た別形であらう。
方言の輸入径路を考へると、敬語系統には、かう言ふことが考へられる。敬語・丁寧語・自卑語などの自家の方言に少いことが地方人に弱みを感じさせることであり、それ等をとり込むことが、方言改良の、一つの大きな方針となつたのである。其故とりわけ反省的な心理要素のある対話敬語が、盛んにとり込まれて行つた。かうした感情の発達は、所謂封建時代らしい自然な筋路である。
 すかい[#「すかい」は太字] しけ[#「しけ」は太字]
すけん[#「すけん」に傍線]は、先に言つた様に、敬語と助辞の接合点がはつきりと器械的に見えてゐる。ところが、時代の前後は訣らぬとしても、接合が自然で、融和してゐて、其為相寄つた語が、語原的に理会出来なくなつて居るものが、今も方言中にはあつて、一見如何にも、「行かすけん」よりも古く出来たことを示してゐる。東京から考へると、逆に奥州あたりからおし出して、這入つて来ようとしてゐるかの様にすら見える。併し事実さう言ふことは考へられない。が、さう言ふ見方からすれば、――近い所では新潟殊にその信濃境までも這入つて来て居り、奥羽の中特に南部地方に盛行する外、飛び地のあちこち[#「あちこち」に傍点]にあるすけ[#「すけ」に傍線]である。やはり分布の歴史からは、其が奥州を中心として、部分的に偏在し残つたものとは見られない。中央から撒布せられたその径路において、其々残存したことは固より、先々の地方々々で、其々音韻分化や、民間合理解などが加つたと言ふ――特殊な残り方をしたものと見られる。青森や、新潟の一部にあるしけ[#「しけ」に傍線]は、かうした姿を示すものと見るべきであらう。
とにかく、すけん[#「すけん」に傍線]一統の方言と、すけ[#「すけ」に傍線]・しけ[#「しけ」に傍線]の一流とは、語形組織に、ちつとも変つた所は見られない。あると言へば、唯一点、九州のは明らかに敬語が敬語――実は軽親語――として這入つて居り、その機能も完全である。越後・奥州のものは、敬語意識は勿論、特に其部分の意義らしいものは推察出来なくなつてしまつてゐることは、上方のさかい[#「さかい」に傍線]と、ちつとも変らぬ程度なのである。
 敬語観の基礎[#「敬語観の基礎」は太字]
それは唯、恰も昔の感動詞か、置き字・挿入語と言つた風にしか受けとれない。一番聯想の近いのは、柳田先生の触れてゐられる「ぢや」「だ」等の「である」――系統のものとして拡げて考へれば、その方向へ更に展開して見ることが出来るやうな感じさへする。
敬語系統の語づかひに馴れなかつた地方人は、標準語として這入つて来た敬語・丁寧語を、その地方言語順列の中にとり込んでも、やがて敬語・敬礼語らしい感じも失つて行くか――或は、さう言ふ敬語感をとり入れるだけの素地に乏しかつた。だがさう言ふ事を重ねて行つてる間に、地方的言語の総体感が、幾分づゝか雅馴なものになつて行つたことだけは疑はれない。
敬語を敬語として遣つてゐても、敬語習慣が、人の心に熟して来るものとは言へない。かい[#「かい」に傍線]とす[#「す」に傍線]と結合したすかい[#「すかい」に傍線]が使はれてゐても、「なさるから」「なさつたから」など言ふ感情は、初めから終りまで人々に起らないで過ぎ去つて行つた土地が多い。が対話敬語として、感じるといふ側から詞の地を柔げるものとなつて、次第に融けこんで行つた地方もあるのは、考へておかねばならぬ。
 居残る標準語[#「居残る標準語」は太字]
大阪を中心とした「さかい」「さかいに」「さかいで」の過去と現在に渉つて感ぜられることは、敬語系統の語感の上で言へば、実際のところ、自分の語に品よく、甘美な感情を持たせようとしてゐるやうに見えることである。此は本来の目的にそぐはない結果だらうが、さうした所にも、この語の、わりこんだ理由の察せられるものは残つてゐる。地方文化が、可なりの高さを持つことをほのめかさうとしてゐる。さう言ふ感覚が、語感の上に行きわたつてゐるのを、我々は地方々々の方言の底に感じる。
「……すかい」が、東北へ向つて進んで行かぬ前に、上方の「すかい」は、恐らく既に「すかい」から転身して、「さかい」と言ふ音韻形をとつてゐたものであらう。極めて古い古典語に似た形が、思ひがけない地方の文献以外に、方言として残つて居ることのあればこそ、昔から、方言の存在が、古典的な意味を持つて、学者の注意を引いたのである。
我々の信頼してゐる文献上の知識は、我々を驚す片方に、又我々の叡智をも昏ます。
中央ならびに、中央の影響が見られ、又最蒙り易からうと思はれる辺に、すかい[#「すかい」に傍線]は、瞥見的にすら姿を見せなかつたやうな貌をしてゐる。此が方言さかい[#「さかい」に傍線]史における、驚いてよい実情である。謂はゞ一度蒔かれた種が、時経て孤立した芽をひらくやうに、其前後と関繋ないものゝやうにさへ感じられる風に、処女地見たやうに現れて来る。だが実際は、語は語として、絶えることなく、地表に現れ続けてゐたのである。我々の文献が目をふたぎ、耳をとざして居たばかりである。
全然痕を消した訣ではないが、地表からは埋没したやうな観を呈する。これが文献上の方言事実である。併し其は残存して命脈を続けてゐるのだが――口頭にすら途絶えてしまつたといふ風になりきつてゐて、時を経て著しく目につき出す。文献の証明と、稀々に使はれることゝ、さうして頻繁に使用することゝ、此三つの方言の現れ方があつて、後の二つは注意せられて居ない。二番生えの形ばかりが、目立つて出て来たりする。だが、方言の上では、驚くべきことではなかつた。
「から」と、「す」と繋がる形は、行きす[#「行きす」に傍線]・思ひす[#「思ひす」に傍線]でなく「行くす」「思ふす」(例、行くすから・思ふすから)でなければならぬといふ、から[#「から」に傍線]に対する文法観が強く出て、「行く[#「行く」に傍線]から」「思ふ[#「思ふ」に傍線]から」のやうな形を、「行く[#「行く」に傍線]す」「思ふ[#「思ふ」に傍線]す」の上にも望んだのである。語義的に深いものゝない――又は忘却した――中間の「す」を越えて、「終止+す+かい」と言つた形を作つたのが、「すかい」「すけ」の一類であつた。
その後、かう言ふ位置にある中間音「す」を、一層「さ」に近づけて行つたものと思はれる。つまりすかい[#「すかい」に傍線]の音質が其に引かれて、さかい[#「さかい」に傍線]に近いものになつて、漸く其方へ移つた、とさう見るのが、あたりまへではないか。
時経て感受のし方が変つてしまつた時分に、遥かな地方に偏在し残つたすかい[#「すかい」に傍線]も、当然元、胚胎したまゝのさかい[#「さかい」に傍線]の未然要素を顕して、さけ[#「さけ」に傍線]・さけい[#「さけい」に傍線]といふ段階に移つたものと考へてよいだらう。
すかい[#「すかい」に傍線]・すけ[#「すけ」に傍線]・しかい[#「しかい」に傍線]・しけ[#「しけ」に傍線]・しき[#「しき」に傍線]の分布を見る地方に、さかい[#「さかい」に傍線]・さけ[#「さけ」に傍線]・さけえ[#「さけえ」に傍線]・さかいで[#「さかいで」に傍線]が現れて来ても、その後又、上方から新しく流れこんで来たものとは、必しも限らぬのである。此とおなじことが、もつと有力に、さかい[#「さかい」に傍線]の出自なる上方にも起つて居たことは、考へておいてよい。
方言は、先に言うたやうに、あるものは、消滅しきらずに、ある期間甚しく衰弱してゐる。さうして何かの動機で、大きに盛り返して来る。方言に限らず、言語全体の上にある例なのである。長い様式を持つて出て来るのが、歌謡である。
さかい[#「さかい」に傍線]の歴史の古さが思はせることは、この方言の唯今分布残存するすべてが、すかい[#「すかい」に傍線]流布後はじめて=さかい[#「さかい」に傍線]が=現れたものとは言ひきらせないものゝあることである。
少々材料不足を感じるが、かう言ふ理由はある。
 盛り返す言語生命[#「盛り返す言語生命」は太字]
上方のさかい[#「さかい」に傍線]は、江戸中期に勢ひを盛り返したもので、その以前に、稍古く既に一度栄えた時代のあつたことが言はれさうなのである。之と似たことで、地方によつては、すかい[#「すかい」に傍線]の全盛時代に、その地方としては、始めて、さかい[#「さかい」に傍線]の現れた所もあつたらしい。さうして其が、上方からの新輸入らしかつたことを思はせてゐる――。その力強さは、唯方言の気まぐれ性《シヤウ》や、行き当りばつたり性から、頭を擡げたりする性質だけによるのではない。
一番さう言ふことの注意を惹く理由は、対話敬語としての「すかい」「さかい」の「す」「さ」が、敬語の地馴しらしい優柔性を感じさせるばかりで、方言文法の上では、何処にもはつきり、痕を残さずじまひになつたらしい点である。
「す」と「けに」の接合した九州方言の形と、形式上では、其から成熟した――遅い発達のやうに見える、さかい[#「さかい」に傍線]との間にはまるやうな、「すかい」の示してゐるやうに、――敬語なり、対話敬語なり、上品語なり、自卑形なりを、気分豊かに示す此系統の方言がありさうなものである。あるべくしてないと言
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