まをす[#「まをす」に傍線]の固定した形のます[#「ます」に傍線]で、とりわけ異風な組織に見えるのは、岩手県地方の、
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行つたます[#「行つたます」は太字]
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の様な「……た」との関係の目につくもの。歴史文法に置き替へて考へると、「行きました」「為《シ》ました」に当るもので、かう言ふ逆表現も、標準語に準拠してゐるやうな感じが持たれたものであらう。表現相からすれば、「為《シ》た」「行つた」の丁寧法を包含した形になつてゐる。今の地方人は、我々もどうかすれば遣ふ――「行つたです」「したです」式に感じもし、遣ひもしてゐるのだらう。
殊に江戸時代の地方人――特に地方指導者が、標準語を採用した目標の一つは、敬語・対話敬語を導入することで、地方語を正醇なものとすることが出来ると考へたことにある。此目的に向つて、努力の積まれてゐたことは、今日の推察以上である。多くの敬語・丁寧語の内には、唯気分的な意義を感じさせるだけで、本来の意義は忘れられたと言ふ風のものも多かつたのである。従つて、丁寧語が敬語と誤られたり、敬語を丁寧語と誤用したり、さう言ふことはありがち[#「ありがち」に傍点]であつた。
 敬語・丁寧語[#「敬語・丁寧語」は太字]
元々丁寧語・対話敬語の語尾だつた「もさ」や「のし」が敬語どころか、気分を緩やかにする所から逸れて、感動語に使はれたのなどは、さうした歴史をはつきりと告げてゐるのである。つまり、敬語表現の必要を、其以前少く感じるだけで済んで来た地方の人々にとつては、「自遜語」「敬語」「対話時の叮重な物言ひ」「感情をゆるめた感動語」さうした雑多な差違を判別する事が、容易でなかつたに違ひない。曾て整然としてゐたものが混乱したと言ふより、整理せられかけたまゝで、又々混乱して行つたり、どこまで遣つて居つても、差別がわからないきりで過ぎたりして、我々の予想するやうに、敬語及び其に似た語の用途は、昔の地方人にぴつたり[#「ぴつたり」に傍点]来なかつたことが多いに違ひない。誤つたまゝで時過ぎて、其が当然の形として通つてゐた上に、又新しく誤りの上に誤りを重ねて遣はれて行つた。その中とりわけ著しいものは、敬語と対話敬語(丁寧語)の上にあつた。
古語における敬語ます[#「ます」に傍線]と、近代に出発した対話敬語ます[#「ます」に傍線]とが、交替する原因にも、やはり混乱から来たものが、あつたのである。
ます[#「ます」に傍線]とおなじ頃に現れたらしいのだが、別々に発達して来て、今も使はれてゐる一類がある。
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です(でいす・でんす・どす・だす)
あす(やす・やんす・おす)
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其から稍遅れて、げす[#「げす」に傍線](がす・ごす)も、ある。
此等の語に共通してゐるす[#「す」に傍線]が、一元のものか、又は、似たものが自然に歩み寄りによつて、更に似た点を増して来たものかと言ふ問題は、簡単には解決がつかぬのである。
この中、「です」は、「奴詞」と見て、さし支へはなく、而も相当に、その早期に顕れたものと見ることが出来る。
あす[#「あす」に傍線]は、其と大体時期の近いものだらうが、女性特に「女房詞」を駆使する人たちの間に流行して、後漸くです[#「です」に傍線]の男におけると同様、女性語としては、うはかぶき[#「うはかぶき」に傍線](浮歌舞妓=宛て字)めいた所が、時の好みに合ひ、はすは[#「はすは」に傍点]だが、ある品格[#「品格」に傍点]を持つた詞として、使ひひろげられたものらしいのである。さうして近代殊に、その出発点にあつた上品意識を深めて来るやうになつたらしい。
 す[#「す」は太字]
近代初頭の端手・寛濶な生活を享楽した男女の社会から生れた、と言つても、間違ひのないのは、此「す」を語末に持つた一群である。其殊に目立つものが、右のあす[#「あす」に傍線]であつた。つまり、ある[#「ある」に傍線](或はあり[#「あり」に傍線])とす[#「す」に傍線]が、複合して、「あす」と言ふ様な形が出来、このあす[#「あす」に傍線]が、「で」を複合して「であす」、其からその重母韻がであす[#「であす」に傍線](>でやす)「でえす」「です」「でんす」を過程として、です[#「です」に傍線]・どす[#「どす」に傍線]・だす[#「だす」に傍線]など、相当反省的[#「反省的」に傍点]な音韻分化が行はれたものらしい。
このです[#「です」に傍線]分化の径路は、極めてごす[#「ごす」に傍線](ごんす)・がす[#「がす」に傍線](がんす)・げす[#「げす」に傍線]に似てゐる。標準語自負を持つた大都市相互の間、或はその一つ都会においてすら、言語|衒《テラ》ひする奴や、初期の歌舞妓衆の、自由過ぎた選
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