」に意味が纏つて保持せられてゐるのである。とにかく敬語と対話敬語とは、驚くばかりの古代から対立してゐた。だから、出発点から混乱して来たといふ訣ではなかつたのである。生れつき対立してゐる性質のもあり、片方に対して性格の裏返しになつたものが現れたりした。対立したものは、形式が似てゐて、どの点かに違つた屈折が出来て来る。さう言ふ中でも、敬語の「たまふ」の形式を裏返したやうな「たまふ……たまふる・たまふれ・たまへ」などは、古代から中世に渉つて行はれたものであり、此対立の考へ方が、他人――貴人の事を言ふ場合と、自分の事を言ふ場合とはつきり区別するやうになつた。さう言ふ行き方が、語義の変化を容易に、多趣多様ならしめることになつたが、後には此豊富な裏返し機能によつて、言語表情を自由にすることを、重くは考へなくなつた。敬語と対話敬語の対立せぬもの、明らかに片方だけになつたもの、さう言ふものが殖えて来、其から敬語法と丁寧法との相違を敏感に感じなくなつて、どちらに意義を据ゑてゐるのだか訣らぬものが多くなつて行つた。
す[#「す」は太字]
あたふ[#「あたふ」に傍線]の敬語発想がたまふ[#「たまふ」に傍線]で、与へらる[#「与へらる」に傍線]を丁寧に言ふとたまはる[#「たまはる」に傍線]。かう言ふ又別の裏返しが、相応数対立した。其繁雑が、とゞのつまり二つあるものを、自ら廃して、一つにならせたり、一つでは久しい習慣が満足しないから二つ共残しておいて、其為気分以外に差別のないものにしてしまつたりする。「ます」「まする」もさう言ふ気分の満足だけにとゞまつて、実際の相違は消えてしまつてゐるもの、と言ふべきであらうか。
「まかり出でてすは」「案内を乞うてすは」の「て」は「……出で候は」「案内乞ひ候は」と言つても、ちつともさし支へのない連用助動詞の「て」なのだから、「まかり出です」「まかり出でそ」「まかり出でさう」など「候」の義のす[#「す」に傍線]・そ[#「そ」に傍線]・さう[#「さう」に傍線]などを「出で」にぢか[#「ぢか」に傍点]に附けても同じことである。「案内……」の場合も勿論おなじである。即、附随してゐるものをとり除けば、「出です」「乞ひす」で、「いきす」「見す」「為《シ》す」の部類に這入るのである。かう言ふ「す」は、凡対話敬語として早くから用ゐられてゐた訣なのだが、使用者は必しも、之を敬語と全然別なものとは考へず、両方一つにして気分を混淆させてゐたこともあつた。唯実際使ふ時に、生得の敏感から、この二種をはつきり[#「はつきり」に傍点]感じわけて居た。とは言へ、一旦此がこみ入つて来た場合は、混乱させない訣にはいかなかつた。これも狂言に、その例が多い。尤、実際の対話には、この類は、数限りもない訣であつた。
すかい[#「すかい」は太字] すけん[#「すけん」は太字]
敬語「す」は、敬語の古格によることが多く、敬語的発想を保つ地方の多い九州では、まだ失はれないでゐるものが沢山ある。たとへば、他の地方で、「行きなさるから」「お行きだから」「行かつしやるから」など、色々な言ひ方をする場合にも、「行かすけに」「行かすけん」と言ふのを聞くと、実際耳の洗はれた感じがする。
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あしたから隊長さんにならすけん…… 小説「散歩者」
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これは、熊本山鹿地方の例であるが、九州は大体これで通じるやうである。作者木村祐章は、山鹿町の人で、山鹿であつたことのやうに書いた作品に「けん」「すけん」「すけんで[#「で」に白丸傍点]」の類、幾十の使用例がある。けん[#「けん」に傍線]はけに[#「けに」に傍線]・からに[#「からに」に傍線](=から)で、基礎になつたものは、「から」(故)であり、「け」である。「あらつしやるから」「なさるから」に当るのが、「すけん」なので、まづす[#「す」に傍線]とけん[#「けん」に傍線]は必しも密著してはゐない。其でも、九州方言の傾向として、敬語でなくてもよい所にも、又敬語を要せぬものにも使ふ所から、軽卑な待遇法が出来てゐる。此は軽親語とでも言ふべきで、敬語式に用ゐた「行きある」「取りある」が、ユキヤル・トリヤルとなり、もつと近代方言風には、トリヨル・ユキヨルとなるやうな類である。だから其す[#「す」に傍線]は極めて微量な敬意を示し、話し口《クチ》の柔軟《ナド》やかなことの為に遣つてゐるやうにさへ見えるが、而もす[#「す」に傍線]は丁寧法即対話敬語となりきつてゐる訣ではない。けん[#「けん」に傍線]は正確に言へば、けに[#「けに」に傍線]であつて、此二つは並行しておなじ地方に行はれることが多い。中国・四国に最有力だが、時には遥かに飛んだ地方にも行はれてゐる。けに[#「けに」に傍線]を経過して其まゝ「き」にな
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