[#「いきんす」に傍線]・みんす[#「みんす」に傍線]の例を、こゝでは、問題にせねばならぬ。
此「す」は明らかに敬礼語――丁寧語即、対話敬語のす[#「す」に傍点]である。其で、もつと原形に近い「行《イ》きいす」「見いす」「為《シ》いす」「……知りいせん」「取りいせん」など言ふ形が、はつきり使はれてゐたのは、語原意識が明確で、「為《シ》ない」「見ない」などと対照になる、「行きいす」「見いす」「行きいせん」「見いせん」と言つた、丁寧語の意識を心に保ちながら、言つてゐる事が訣る。かうしたところに、江戸住民の言語反省が強く深いことゝ共に、生活の上に言語慰楽の追求となつて現れてゐたことが見られる。
乞ひうけ[#「乞ひうけ」は太字] 命令[#「命令」は太字]
さう言ふ点で、同様に対話時の敬語に敏感を示してゐるのは、時代は大体に、之より古くなる所の狂言詞である。特に軽命令――言ひ替へれば、「乞ひ請け」の形、「聞かしめ」「いやならば措《オ》かしめ」「見せてくれさしめ」「心得さしめ」などの類に、其が見られる。「……しておくれよ」と言ふ程度まで、その意義と、用語例の間にひらき[#「ひらき」に傍点]が出来て、語の方が柔らいで用ゐられて来てゐる。其だけ実際用語としては、よほど上品で温柔な感覚を含んで来てゐるものと言つてよい。実際には、さうした高い標準語らしいものを使はぬ階級の人々の間で、やりとりせられてゐるのである。狂言における虚構標準語と言へる。だから末々、「しめ」系統の語は、狂言詞として孤立して、各地方方言の上にも、多くは残らなくなつたのだらう。
狂言詞にも、色々な分類が行はれると思ふが、普通なのり[#「なのり」に傍点]から初めて、対話などに使つてゐる「候」を中心にしたもの言ひ[#「もの言ひ」に傍点]は、狂言としての舞台用語――戯曲語で、ひらき直つた言ひ方の語である。言はゞ武家辞宜の口状で、祝儀・不祝儀の――それも非常にあらたまつた時に使ふ切り口状である。奏者・使者等から出た口状の類の物言ひが舞台語としての慣用から、実際日常用語のやうに思はれて来た。
無頼語[#「無頼語」は太字]
其故、対話がくだけて来ると、候詞が少くなつて来る。動作や表情が中心になつて戯曲よりも劇らしい感情が出て来ると、詞が自由になる。喧嘩・口論・常の応対などにかゝると、狂言詞は生き/\と精彩を発揮する。この部分において当時の写実語が出て来る。其は、「候ことば」ではないのである。
ところが、今一つ狂言詞において異様な事がある。
当時の流行語――洗煉せられた語と考へられてゐて、而も実際はさほどでない。――洗煉せられたと思ふ所に狂言詞の癖があり、ある歴史があるのである。流行語を使ひ馴れてゐる様な人々、さう謂つた雰囲気に居る者共のしやれた[#「しやれた」に傍点]らしい言ひ方の、実は品格の上では賛成の出来ぬものが、狂言用語の中には、相当に使はれてゐるのである。
此は思ふに、前代以来我々が能・狂言役者の類の人々に対して、その能芸人らしい生活を、実際より遥かに静かな、うち和んだ優美なものと言ふ風に考へる誤認の癖があつた。彼らの生活はもつと放恣で、濶達で、飄遊者風で、多くの場合、無頼的ですらもあり、時としては様々の賤民部落の人々の生活そのまゝでもあつた。狂言だけについて言つても、あの中におのづから描写せられてゐる其時世装の上に、気随な大名・諸侍《シヨザムラヒ》や、水破《スツパ》無頼の徒や、人妻|拐《カド》ひ・放蕩人の類として現れてゐる。さう言ふ、過差・豪華な生活を楽しんだ一部の者の姿は、亦彼等の、世間に大手を振つてあるいた、ありの儘でもあつた。彼等自身の遣ふ語も、都会的な流行を追うてゐた。我々は今でも、狂言詞の大きな特徴が、どう言ふ生活の中から、おし出されて来たかを見ることが出来る。
狂言詞[#「狂言詞」は太字]
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(白蔵主の詞)けふは、思ふ子細あつて、案内を乞うてす[#「す」に白丸傍点]は 「釣狐」以下、三百番本による。
(群衆の詞)皆言ひ合せて、まかり出でてす[#「す」に白丸傍点]は 「薬水」
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これを直訳すれば、恰も、現代語の「……したことですは」と言ふことになる。併し、「す」は「です」ではない。「……乞ひて[#「て」に二重丸傍点]候[#「候」に白丸傍点]よ」「……罷り出でて[#「て」に二重丸傍点]候[#「候」に白丸傍点]よ」が、正しい逐字訳見たやうな形である。「て」は、現在完了助動詞の連用形につくて[#「て」に傍線]、其についで対話敬語としての「す」が這入つて居り、更に接尾感動語として「は(わ)」が添はつてゐる。而もこの「す」は、明らかに、候が語原である。
にも繋らず、更に一段の古語から出て、中世末まで残つたものゝ様な感じを、人
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