類にすら、よほどくだけた[#「くだけた」に傍点]表現の外は、す[#「す」に傍線]・すよ[#「すよ」に傍線]が少い理由が察せられる。
里ことば[#「里ことば」は太字]
江戸の吉原ことばは、新吉原時代になつても、まだ旧態を持ち越してゐた。古い遊廓の来歴が、其に示されると信じてゐたのが、遊里のくつわ[#「くつわ」に傍点]が持つた誇りだつたのである。吉原の各遊女屋は、それ/″\の国から集つて、一廓をなすに至つたもので、家々皆々出身地方の風習を存して居た中にも、言語は特に郷土の用語を更めることなく使つてゐたと称せられた。其が、自らくつわ[#「くつわ」に傍点]のふおくろあ[#「ふおくろあ」に傍線]をなすに到つたと言はれるかも知れない。遊女の用語は其によつて、部分的に異同があつて、それ/″\の家の特色としてゐた。
この伝承はある点まで事実だつたらうし、家々の女の生活行事は、大同小異の特殊な様式を残してゐた。
併し此は、必しも吉原だけのことではない。
京の島原・大阪の新町の妓楼《クツワ》の家々にも、同様のことが見られ、その他地方々々の古い遊廓にも、其が古格を誇る家々の特徴、とせられてゐたやうである。
江戸において見ても、吉原語同様のものは、其以外の遊廓にも用ゐられ、岡場所など言はれる私娼街でも、似たりよつたりの特殊語は発育してゐた。洒落本やある種の黄表紙は、ある点から言へば、さう言ふ語の駆使を誇つてゐるやうにさへ見える。此等は恐らく、小遊廓の生活に、自然異同が生じて来る上に、吉原語の普遍的なものを、移植した所から来たものであらう。その一例、
[#ここから2字下げ]
なんす(なんし=軽命令形)――なます……敬語
ざます(ざあます)……対話敬語
……ansu(思はんす・行かんすの類)……敬語
……insu(いきんす・見《ミ》んす・為《シ》んす)……対話敬語
……insen(いきんせん)……否定
[#ここで字下げ終わり]
右の中、なんす[#「なんす」に傍線]は、なさんす[#「なさんす」に傍線]の略形、恐らく、なはんす[#「なはんす」に傍線]を経過したものだらう。
……すの類の ansu は、右の里語以外にも広く行はれた「通常安易敬語」で、古代から中世を経て来た「行かす」「思はす」の、方言化して行はれてゐたものらしく見えるが、此は断言する訣にはゆかぬ。おなじ筋の行かつす[#「行かつす」に傍線]・思はつす[#「思はつす」に傍線]と促音化したものは、江戸では職人・町人の敬語となつて残つたが、此は元来の遊廓語ときめることは出来ぬ。存外高い階級に行はれた「御殿語」といふやうなものゝ、市中に流れ出て、身分のある者から、低い人々へ逓下したものらしく思はれる。地方慰楽語と命けてよいものであらう。いきんす[#「いきんす」に傍線]・しんす[#「しんす」に傍線](又、……iisu)の類は、吉原の一部や、岡場所語としては、「いきいす」又は「いきんす」「おつせいす」(仰)を普通としてゐ、特に insu(「いきんす」「ありんす」)の場合、遊里情趣が表現せられるものと考へたらしい。
いんす・あんす、ざます[#「ざます」に傍線]は「ござります」が故意の又は放恣な発音によつて、音韻没入を来したもので、「ござります」の与へる真摯な感覚を避けてゐるやうに見える。ご[#「ご」に傍線]をまづ脱し、次いで、「り」を不正確に発音して、遂に之を滅却させたものであつた。最近別の事情で、同じ語の同じ変化が見られるやうになつたのである。中流以上の夫人階級の女性が階級感の発露を感じるらしくて、そこに偶然此音韻現象の復活を見た。所謂「ざあます」語である。「ござあます」から転じたのである。此方はあくせんと[#「あくせんと」に傍線]を「ざ」において、強調する所から起つたものらしい。
この類の遊廓語の中、敬語・丁寧語の一部をあげたのだが、固有名詞その他の単語の上にも、又種々の異風が行はれてゐた。だが今は其に触れない。
こゝに問題となるのは、「行かんす」と「行きんす」とで、殊に「さかい」の場合には、後者が多くの暗示を見せてゐる。「行かんす」の類の「す」は、先に述べた古くからの敬語々尾に似たもので、或は時代的の傾向としては、「行かァす」「思はァす」の如き特殊な音韻が加つて来てゐるものと見るべきであらうか。行かんす古形説を一往避けたが、たとへば、「行かさす」(敬)、「思はさす」(敬)が拗撥音表情を加へて「行かしやんす」「思はしやんす」と発音する様になつた所に、活用長期残存とも言ふべき、語法の時代色が伺はれる様である。
唯これは何処までも、敬語として所謂将然形系統の特殊相を、後世になつても、保持したものと言ふことが出来る。
今は別に、「行かんす」「思はんす」と殆同一の構造に見えるやうに出来て居乍ら、意義の違ふいきんす
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