影は口のうちでなにか一言つぶやいたようであったが、そのままもとのとおり障子を閉めて去ろうとした。君子は素早くその後を追った。黒い影は長い廊下をまっすぐに突き当たり、雨戸を開ければ、立木をとおして池の見える縁廊下を静かに歩いて行く。君子は身を隠すところもない長い縁廊下を蜘蛛《くも》のように部屋の障子に沿うて後を尾《つ》けた、今にも先に行く黒い影が引き返し、襲いかかりはしないかと不安と恐れにはずむ息を押えて。黒い影は廊下を曲り小さな橋を渡って離れに消えた。それは未亡人の部屋だった。
 やっぱり、考えたとおりだと君子は思った。しかし未亡人なら母の姉か妹か知らないけれども伯母《おば》さんに違いはない。たとえそれが伯母であろうと父を奪い、母を殺し、自分の命までも狙う鬼にも等しい伯母なら復讐するのは当然ではないか。ひき返した君子が自分の部屋にはいろうとしたとき、廊下の闇から忍ぶような声がした。松江《まつえ》さん。君子はぎょっとして、そこに立ちすくんでしまった。あんたの身体はきっと僕が守ります。それは下男の芳夫《よしお》の声だった。
 少し風が出たのであろう。ふた子池の葦《よし》の鳴る音がかすかに聞
前へ 次へ
全37ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
山本 禾太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング