母がなにを言ったのか、君子にはどうしても思い出せない。今になって考えてみると、これは非常に大事なことで、そのときの一言さえ思い出せたら、夢のような一切がはっきりするに違いないと君子は残念に思うのであるが、それがどうしても思い出せない。山を下って森に着いてみると、それはずいぶん広い森で、長い田圃の突き当たりに大きい、大名のお城にあるような門が立っていた。門の前に立った君子の母は、しばらく躊躇《ためら》っていたが、君子に、お前はしばらくここに待っているのだよ、お母さんはすぐに出てくるから、と言っていやがる君子をそこに待たせて、お高祖頭巾をかぶったまま門のなかにはいって行った。そして、そのままである。母はついに再びこの門から出てこなかったのである。
 それから、すでに十年の月日がたっている。その時の淋《さび》しい自分の小さな姿を君子は今でもはっきりと胸に描くことができる。およそ一時間も待ったであろうか、あたりに家はなし、もちろん人通りなぞあろうはずがなく、子供心にもじっとしていることができなくなり、そっと門のなかまではいってみたが、建物なぞどこにあるのか、大きな木が何本もあって、門の外までつ
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