まじな》いを唱えたりして夜どおし妻の枕元で看病していた。
 そろそろ夜の明けがたになって、二人の遍路が早立ちをするから、ちょっとご主人に挨拶がしたいと言って来たので、君子の父は病人の枕元を離れて茶の間に出てみた。もうすっかり旅支度の出来た二人の遍路は、丁寧に一夜の宿を恵まれた礼を述べ、聞けば奥さんがご病気のよし、さぞお困りのことであろう、一夜の宿を恵まれたお礼に、また四国遍路のつとめでもあるから、今朝は病気平癒のお祈りをした。このお札《ふだ》は四国巡拝を十回以上したものに限って授けられるまことにありがたいお札であるから、これをご病人に飲ましてくれ、といって小さな金色の御符を差し出した。ありがたやの父は、この霊験のあらたかそうなお札を押し頂き、あつく礼を述べたということである。
 二人の遍路が発ってから、祖母はいつもするように、遍路の泊まった部屋に入って見たが、たいていの遍路がそうであるように、部屋はきちんと片付いて、なに一つ残っていなかった。泊まった遍路が発《た》つときに必ずお札を一枚ずつ貼って出て行く出口の大戸、それはお札のために盛りあがるくらい分厚くなっているその大戸に、二人の遍路が貼ったものらしい二枚の新しいお札があったそうな。
 祖母の話は、まことにおぼろげな記憶にしか残っていないのであるが、君子は四国巡拝のお札が、大きな戸の裏いっぱいに貼られ、それが上から上へと盛りあがって、押し絵の羽子板のようにふくれあがっていたことだけはたしかに見たことがあるように思う。
 遍路から貰った金のお札を水に浮かべて母に飲まそうとしたが、その朝熱の下がっていた母は、どうしてもそれを飲まなかったそうな。父は子供をあやすように母の唇《くち》に茶碗を押しつけ無理にも飲まそうとしたが、母はかぶりを振って固く拒《こば》んで飲まなかったそうである。茶碗を持ったまま、しばらく母の顔を見ていた父は、もったいないといって、無造作に、がぶりと一口にお札を飲んでしまった。黒い血を吐き、もがき苦しんで父が死んだのはそれから一時間もたたぬ後であったと言う。
 祖母の話のうちで、もっとも君子の記憶に鮮やかにのこっているのは、この話である。それは、父の変死という大きな事件であるためかもしれないが、それより、霊験あらたかな金のお札を頂いた父が、なぜすぐに死んでしまったのか、その不思議が大きな謎であったためだ
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