、札幌、遠くは大連にまで探偵小説クラブという会が出来て同好の連中が集まり毎月例会の消息を知らせてくるという盛況ぶりであった。この「ぷろふいる」の編輯に九鬼澹君が当るようになり、中央との関係がますます深くなって来たので、京都にあった編輯部を東京に移したのであったが、さすがねばり強かった「ぷろふいる」も、東京へ移ったのが一つの逆効果となり「探偵クラブ」と改題したものの遂に廃刊になってしまった。
 この「ぷろふいる」が日本探偵小説壇に残した功績は相当高く買ってよいと思う。例えばその功績のなかでも探偵小説評論を生んだことである。当時「大衆文学」は批判の対象とはならず探偵小説も然りであったが「ぷろふいる」では盛んに批評をやり遂に相当まとまった評論を生むに至った。
 その中でも木々高太郎氏の探偵小説は芸術品たり得るという所謂『探偵小説芸術論』と甲賀三郎氏の探偵小説は本質的に通俗作品であって芸術品たり得ない、という所謂『探偵小説通俗論』の論争である。これは五ヶ月に亙って論争せられ、それに江戸川乱歩氏が木々説を支持したり大変華やかな筆論であった。はては甲賀氏一流の筆法で感情論にまで及ぶに至って終ったが
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