いたことは一度も見たこともなく、また画を描くと云うことを聞いたことさえもない。
 夫がはたして手紙を書いた未知の男であるなら、今日までそれを黙って居よう筈もない。なんのために夫はそれを語らなかったのであろうか。斯う思うと、夫の筆跡と手紙の筆跡とは、似ては居るようであったが、どこかに違ったところがあるようにも思われるのであった。しかし閑枝は、その筆跡なぞを比べてその真偽を究めようなぞとは思わなかった。また夫にそれを確かめて見ようとも思わなかった。ただ、なんとはなしに、静かな、平和な光りのなかに、思うがままに開かせてきた空想の華を、無残にも引きちぎられた悲しみとも、憤りとも、名状し難い不快な気持であった。
 夫は、その夜遂に帰って来なかった。
 追憶と夢の一夜が明けた。
 時計を見ると九時であった。
 漸く床から出た閑枝は、朝の身仕舞もものうく、そこの姿見に顔を写して見た。そして蒼白く細い自分の顔に両手を当てて見た。
 そっと襖が開いて女中がはいってきた。
「お目覚めで御座いますか、只今、あの………旦那様からお電話で御座います」
「そう………」
 閑枝は立ち上ろうともしなかった。女中は、そ
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