に周囲二丈五尺の杉各一本は、白井博士の説に、実に本邦無類の巨樹とのことなり。またこれら大木の周囲にはコバンモチというこの国希有の珍木の大樹あり。托生蘭《たくせいらん》、石松類《なんかくらんるい》等に奇物多し。年代や大いさよりいうも、珍種の分布上より見るも、本邦の誇りとすべきところなる上、古帝皇将相が熊野詣りごとに歎賞され、旧藩主も一代に一度は必ずその下を過《よぎ》りて神徳を老樹の高きに比《よそ》え仰がれたるなり。すべてかかる老大樹の保存には周囲の状態をいささかも変ぜざるを要することなれば、いかにもして同林の保存を計らんと、熊楠ら必死になりて抗議し、史蹟保存会の白井、戸川〔残‖花〕二氏また、再度まで県知事に告げ訴うるところあり。知事はその意を諒とし、同林伐採を止めんとせしも、属僚輩かくては県庁の威厳を損ずべしとて、その一部分ことに一方杉に近き樹林を伐らしめたり。過ちを改めざるを過ちと言うとあるに、入らぬところに意地を立て、熊楠はともあれ他の諸碩学の学問上の希望を容れられざりしは遺憾なり。かくのごとく合祀励行のために人民中すでに姦徒輩出し、手付金を取りかわし、神林を伐りあるき、さしも木の国と呼ばれし紀伊の国に樹木著しく少なくなりゆき、濫伐のあまり、大水風害年々聞いて常事となすに至り、人民多くは淳樸の風を失い、少数人の懐が肥ゆるほど村落は日に凋落し行くこそ無残なれ。
 これより予は一汎に著《あら》われたる合祀の悪結果を、ほぼ分項して記さんに、
 第一、神社合祀で敬神思想を高めたりとは、政府当局が地方官公吏の書上《かきあげ》に瞞《だま》されおるの至りなり。電車鉄道の便利なく、人力車すら多く通ぜざる紀州鄙地の山岳重畳、平沙渺茫たる処にありては、到底遠路の神社に詣づること成らず。故に古来最寄りの地点に神明《しんめい》を勧請《かんじょう》し、社を建て、産土神《うぶすながみ》として朝夕参り、朔望《さくぼう》には、必ず村中ことごとく参り、もって神恩を謝し、聖徳を仰ぐ。『菅原伝授鑑』という戯曲三段目に、白太夫なる百姓|老爺《ろうや》が七十の賀に、三人の※[#「※」は「おんなへん+息」、498−8]《よめ》が集《つど》い来て料理を調うる間に、七十二銅と嫁に貰える三本の扇を持ち、末広《すえひろ》の子供の生い先、氏神へ頼んだり見せたりせんとて、いまだその社を知らざる一人の※[#「※」は「おんなへん+息」、読みは「よめ」、498−10]を伴い参詣するところあり。田舎には合祀前どの地にも、かかる質樸にして和気|靄々《あいあい》たる良風俗あり。平生|農桑《のうそう》で多忙なるも、祭日ごとに嫁も里へ帰りて老父を省《せい》し、婆は三升樽を携えて孫を抱きに※[#「※」は「おんなへん+息」、読みは「よめ」、498−12]の在所へ往きしなり。かの小窮窟な西洋の礼拝堂に貴族富豪のみ車を駆《は》せて説教を聞くに、無数の貧人は道側に黒|麪包《パン》を咬んで身の不運を嘆《かこ》つと霄壌《しょうじょう》なり。かくて大字ごとに存する神社は大いに社交をも助け、平生頼みたりし用談も祭日に方《かた》つき、麁闊《そかつ》なりし輩も和熟親睦せしなり。只今のごとく産土神が往復山道一里|乃至《ないし》五里、はなはだしきは十里も歩まねば詣で得ずとあっては、老少婦女や貧人は、神を拝し、敬神の実を挙げ得ず。
 前述一方杉ある近野村のごとき、去年秋、合祀先の禿山頂の社へ新産婦が嬰児とその姉なる小児を伴い詣るに、往復三里の山路を歩みがたく中途で三人の親子途方に暮れ、ああ誰かわが産土神《うぶすながみ》をかかる遠方へ拉《と》り去れるぞと嘆くを見かねて、一里半ばかりその女児を負い送り届けやりし人ありと聞く。西牟婁郡三川豊川村は山嶽重畳、一村の行程高野山を含める伊都郡《いとごおり》に等しと称す。その二十大字三十二社を減じて、ことごとく面川《めんこ》の春日社に併せ、宮木をことごとく伐りて二千余円に売りながら、本社へは八百円しか入らず。さてその神主田辺へ来たり毎度売婬女に打ち込み、財産差押えを受けたり。この村は全く無神になり、また仏寺をも潰しおわり、仏像を糞担桶《こえたんご》に入れ、他の寺へ運ばしむ。村長|家高《いえたか》某という者、世に神仏は無用の物なり、万事村長の言をさえ遵奉せば安寧浩福なりとの訓えなり。
 白石の『藩翰譜』に、秋田氏暴虐なりしを述べて、その民の娘、年長じても歯を黒め得ざりしと言えるをさえ苛政の例《ためし》に覚えしが、今はまた何でもなき郡吏や一村長の一存で、村民が神に詣で名を嬰児に命ずる式すら挙げ得ざるも酷《ひど》し。その状あたかも十七世紀に、英国内乱に際し、旧儀古式を全廃し、セントポール大寺観を市場と化し、その洗礼盆で馬を浴せしめ、愚民|嗷語《ごうご》して、われは神を信ぜず、麦粉と水と塩を信ずと言い、僧に向かいて汝自身の祈祷一俵を磨場《つきや》に持ち往き磨《ひ》いて粉にして朝食を済ませよなど罵りしに同じ。『智度論』に、恭敬は礼拝に起こると言えり。今すでに礼拝すべき神社なし、その民いかにして恭敬の何物たるを解せんや。すでに恭敬を知らぬ民を作り、しかして後日長上に従順ならんことを望むるは、矛盾のはなはだしきにあらずや。かく敬神したきも、敬神すべき宛所《あてどころ》が亡われおわりては、ないよりは優れりという心から、いろいろの淫祀を祭り、蛇、狐、天狗、生霊《いきりょう》などを拝し、また心ならずも天理教、金光教など祖先と異なる教に入りて、先祖の霊牌を川へ流し、田畑を売りて大和、備前の本山へ納め、流浪して市街へ出で、米搗きなどして聊生《りょうせい》する者多く、病を治するとて大食して死する者あり、腐水を呑んで失心するもあり。改宗はその人々の勝手次第なるも、かかる改宗を余儀なくせしめたる官公吏の罪|冥々裡《めいめいり》にはなはだ重し。合祀はかくのごとく敬神の念を減殺《げんさつ》す。
 第二に、神社合祀は民の和融を妨ぐ。例せば、日高郡|御坊《ごぼう》町へ、前年その近傍の漁夫が命より貴ぶ夷子《えびす》社を合併せしより、漁夫大いに怒り、一昨夏祭日に他大字民と市街戦を演じ、警吏等の力及ばず、ついに主魁九名の入監を見るに及び、所の者ことごとく合祀の余弊に懲《こ》り果てたり。わが邦人宗教信仰の念に乏しと口癖に言うも、実際合祀を濫用して私利を計る官公吏や、不埒千万にも神社を潰して大悦する神職は知らず、下層の民ことに漁夫らは信心はなはだ堅固なる者にて、言わば兵士に信心家多きごとく、日夜|板《いた》一枚の命懸けの仕事する者どもゆえ、朝夕身の安全を蛭子《えびす》命に祷り、漁に打ち立つ時獲物あるごとに必ずこれに拝詣し報賽《ほうさい》し、海に人落ち込みし時は必ずその人の罪を祓除《ふつじょ》し、不成功なるごとに罪を懺悔して改過し、尊奉絶えざるなり。しかるに海幸《うみさち》を守る蛭子社を数町|乃至《ないし》一、二里も陸地内に合併されては、事あるごとに祈願し得ず、兵卒が将校を亡《うしな》いしごとく歎きおり、ために合祀の行なわれたる漁村にはいろいろの淫祀が代わりて行なわれており、姦人の乗じて私利を営むところとなる。これ角《つの》を直《ただ》さんとして牛を殺せるなり。
 学者や富豪に奸人多きに引きかえ、下民は常に命運の薄きを嘆くより、したがって信心によって諦めを啓《ひら》かんとする念深く、何の道義論哲学説を知らぬながらに、姦通すれば漁利|空《むな》し、虚言すれば神罰立ちどころに至ると心得、ために不義に陥らぬこと、あたかも百二十一代の至尊の御名を暗誦せずとも、誰も彼も皇室を敬するを忘れず、皇族の芳体を睨《にら》めば眼が潰るると心得て、五歳の髫※[#「※」は「齒+つりばり」、501−8]《ちょうしん》も不敬を行なわぬに同じ。むつかしき理窟入らずに世が治まるほど結構なることなく、分に応じてその施設あるは欧米また然り。フィンランド、ノルウェーなどには、今も地方に吹いたら飛ぶような木の皮で作った紙製[#「紙製」に〔ママ〕の注記]の礼拝堂あり。雪中に一週に一度この堂に人を集め、世界の新聞を報じ、さて郵便物の配布まで済ませおる。老若男女打ち集い歓喜限りなし。別に何たるむつかしき説法あるにあらず。英国なども、漁村には漁夫|水手《かこ》相応の手軽き礼拝堂あり。これに詣る輩むつかしき作法はなく、ただ命の洗濯をするまでなり。はなはだしきは、コーンウォール州に、他州人の破船多くて獲物多からんことを祈り、立てた寺院すらあるなり。それは過度ならんも、漁夫より漁神を奪い、猟夫より山神を奪い、その祀を滅するは治道の要に合わず。いわんや、山神も海神もいずれもわが皇祖の御一族たるにおいてをや。神威を滅するは、取りも直さず、皇威に及ぼすところありと知るべし。
 西洋に上帝を引いて誓い、また皇帝を引いて誓うこと多し。まことに聞き苦しきことなり。わが国にも『折焚く柴の記』に、何かいうと八幡神などの名を引いて誓言する老人ありしを、白石の父がまことに心得悪しき人なりと評せしこと出でたり。されば、梵土には表面梵天を祀る堂なし。これ見馴れ聞き馴るるのあまり、その威を涜《けが》すを畏れてなり。近ごろ水兵などが、畏き辺《あた》りの御名を呼ばわりて人の頭を打ち、また売婬屋で乱妨《らんぼう》などするを見しことあり。言わば大器小用で、小さき民や小さき所には、たとい誓言するにも至尊や大廟の御名を引かず、同じく皇室御先祖の連枝《れんし》ながらさまで大義に触れざる夷子《えびす》社や山の神を手近く引くほどの準備は縦《ゆる》し置かれたきことなり。教育到らざる小民は小児と均《ひと》しく、知らずして罪に陥るようのこと、なるべく防がれたし。故に、あまりに威儀厳重なる大神社などを漁夫、猟師に押しつくるは事件の基なり。
 また日高郡|原谷《はらたに》という所でも、合祀の遺恨より、刀で人を刃せしことあり。東牟婁郡|佐田《さだ》および添《そえ》の川《かわ》では、一昨春合祀反対の暴動すら起これり。また同郡|高田《たかだ》村は、白昼にも他村人が一人で往きかぬるさびしき所なり。その南檜杖《みなみひつえ》大字の天王の社は、官幣大社|三輪《みわの》明神と同じく社殿なく古来老樹のみ立てり。しかるに、社殿あらば合祀を免ると聞き、わずか十八戸の民が五百余円出し社殿を建つ。この村三大字各一社あり。いずれも十分に維持し来たりしを、四十一年に至り一村一社の制を振り舞《まわ》し、せっかく建てたる社殿を潰し他の大字へ合祀を命じたるに、何の大字一つへ合祀すべきか決せず。四十三年二月末、郡長その村の神社関係人一同を郡役所へ招き、無理に合祀の位置を郡長に一任と議決せしめ、その祝賀とて新宮町の三好屋で大宴会、酒二百八十余本を飲み一夜に八十円費やさしめ、村民大不服にて合祀承諾書に調印せず。総代輩困却して逃竄《とうざん》し、その後召喚するも出頭せず。よって警察所罰令により一円ずつの科料を課せり。かくて前後七回遠路を召喚されしも、今に方つかずと、神社滅亡を喜悦するが例なるキリスト教徒すら、官公吏の亡状を厭うのあまり告げ来たれり。これらにて、合祀は民の和融を妨げ、加えて官衙の威信をみずから損傷するを知るべし。
 第三、合祀は地方を衰微せしむ。従来地方の諸神社は、社殿と社地また多くはこれに伴う神林あり、あるいは神田あり。別に基本財産というべき金なくとも、氏子みな入費を支弁し、社殿の改修、祭典の用意をなし、何不足なく数百年を面白く経過し来たりしなり。今この不景気連年絶えざる時節に、何の急事にあらざるを、大急ぎで基本財産とか神社の設備とか神職の増俸とかを強いるは心得がたし。あるいは大逆徒出でてより、在朝者、神社を宏壮にし神職に威力を賦して思想界を取り締らしめんとて、さてこそ合祀を一層励行すといえど、本県ごとき神武帝の御古社を滅却したり、新宮中の諸古社をことごとく公売したりせるのちに、その地より六人という最多数の大逆徒を出せるを見る者、誰かその本末の顛倒に呆れざらん。また、只今ごとき無慙無義にして神社を潰して自分の俸給を上げんことのみ※[#「※」は「冒+力
前へ 次へ
全8ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング