踰《こ》えて、一歩三礼して御参拝ありし。後白河帝が、脱位ののち本宮へ御幸三十二度の時御前にて、
『玉葉』 忘るなよ雲は都を隔つともなれて久しき三熊野の月
巫祝《みこ》に託して、神詠の御答えに、
暫くもいかが忘れん君を守《も》る心くもらぬ三熊野の月[#この歌、二行前の歌に頭揃え。]
また後鳥羽上皇は、本宮焼けてのちの歳の内に遷宮《せんぐう》侍りしに参りあいたまいて、
『熊野略記』 契りあらば嬉しくかかる折にあひぬ忘るな神も行末の空[#で各歌の頭は全て揃っている。]
万乗の至尊をもって、その正遷宮の折にあいたまいしを、かくばかり御喜悦ありしなり。しかるに、在来の社殿、音無《おとなし》川の小島に在《おわ》せしが、去る二十二年の大水に諸神体、神宝、古文書とともにことごとく流失し、只今は従来の地と全く異なる地に立ちあり。万事万物新しき物のみで、露軍より分捕の大砲など社前に並べあるも、これは器械で製造し得べく、また、ことにより外国人の悪感を買うの具とも成りぬべし。
これに反し、流失せし旧社殿跡地の周囲に群生せる老大樹林こそ、古え、聖帝、名相、忠臣、勇士、貴嬪《きひん》、歌仙が、心を澄ましてその下に敬神の実を挙げられたる旧蹟、これぞ伊勢、八幡の諸廟と並んでわが国の誇りともすべき物なるを、一昨夏神主の社宅を造るとて目星《めぼし》き老樹ことごとく伐り倒さる。吾輩故障を容れしに、氏子総代、神主と一つ穴で※[#「※」は「かぜ+昜」、490−17]言《ようげん》揚々として、むかしよりかかる英断の神官を見ず、老樹を伐り倒さば跡地を桑畑とする利益おびただしとて、その時伐採り見て哭《な》きし村民を嘲ること限りなし。その神主は他国の馬骨で、土地に何の関係なければ惜し気もなくかかる濫伐を遂げ、神威を損じ、たちまち何方へか転任し、今日誰が何と小言吐くも相手なければ全く狐に魅《つま》まれしごとし。その前にも本宮の神官にして、賽銭か何かを盗み、所刑《しょけい》されし者あり。あるいは言わん、衣食足りて礼を知り、小人究すれば濫するは至当なり。賽銭を盗み、神林を伐りて悪くば、神官に増俸すべし、と。これ取りも直さず、世道の標準たるべき神聖の職にある人が、みずからその志操を忘却して乞盗に儔《たぐ》うるものなり。平田篤胤が世上の俗神職の多くを謗《そし》りて、源順朝臣が『倭名抄』に巫覡《ふげき》を乞盗部に入れたるを至当とせるを参考すべし。
次に新宮には、ちょうど一昨年中村氏が議会へこのことを持ち出さぬ前にと、万事を打ち捨てて合祀を励行し、熊野の開祖|高倉下命《たかくらじのみこと》を祀れる神倉社とて、火災あるごとに国史に特書し廃朝仰せ出でられたる旧社を初め、新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売せり。その極《きょく》鳥羽上皇に奉仕して熊野に来たり駐《とど》まりし女官が開きし古尼寺をすら、神社と称して公売せんとするに至れり。もっとも如何《いかが》に思わるるは、皇祖神武天皇を古く奉祀せる渡御前《わたるごぜん》の社をも合祀し、その跡地なる名高き滝を神官の私宅に取り込み、藪中の筍《たけのこ》を売り、その収入を私《わたくし》すと聞く。さてこの合祀に引き続き、この新宮の地より最多数すなわち六名の大逆徒を出し、その輩いずれも合祀の最も強く行なわれたる三重と和歌山県の産なるは、官公吏率先して破壊主義と悖逆《はいぎゃく》の例を実示せるによる、と悪評しきりなり。大逆管野某女が獄中より出せる状に、房州の某処にて石地蔵の頭を火炙《ひあぶ》りにせしが面白かりし由を記せるなど考え合わすべし。
ことに苦々しきは、只今裁判進行中の那智山事件にて、那智の神官尾崎とて、元は新宮で郡書記たりし者が、新宮の有力家と申し合わせて事実なき十六万円借用の証文を偽造し、一昨年末民有に帰せる那智山の元国有林を伐採し尽して三万円の私酬を獲んと謀り、強制伐木執行に掛かる一刹那検挙されたるにて、このこともし実行されなば那智滝は水源全く涸れ尽すはずなりしなり。この他に熊野参詣の街道にただ一つむかしの熊野の景色の一斑を留めたる大瀬の官林も、前年村民本宮に由緒ありと称する者に下げ戻されたり。二千余町歩の大樹林にて、その内に拾《ひら》い子《こ》谷《だに》とて、熊野植物の模範品多く生ぜる八十町長しという幽谷あり。これも全くの偽造文書を証拠として山林を下げ戻されたるにて、只今大阪から和歌山県に渉り未曽有の大獄検挙中なり。これらはいずれも神社合祀の励行より人民また神威を畏れず、一郡吏一村役人の了見次第で、古神社神領はどうでもなる、神を畏るるは野暮の骨頂なり、われも人なり、郡村吏も人なり、いっそ銘々に悪事のありたけを尽そうではないかという根性大いに起これるに出づ。
むかし京都より本宮に詣るに、九十九王子とて歴代の諸帝が行幸御幸の時、奉幣祈願されし分社あり。いずれも史蹟として重要なる上、いわゆる熊野式の建築古儀を存し、学術上の参考物たり。しかるにその多くは合祀で失われおわる。一、二を挙げんに、出立《でたち》王子は定家卿の『後鳥羽院熊野御幸記』にも見るごとく、この上皇関東討滅を熊野に親しく祈らんため、御譲位後二十四年一回ずつ参詣あり、毎度この社辺に宿したまい(御所谷《ごしょたに》と申す)、みずから塩垢離取らせて御祈りありしその神社を見る影もなく滅却し、その跡地は悪童の放尿場となり、また小ぎたなき湯巻《ゆまき》、襁褓《むつき》などを乾すこと絶えず。それより遠からず西の王子と言うは、脇屋義助が四国で義兵を挙げんと打ち立ちし所なり。この社も件の出立王子と今一大字の稲荷社と共に、劣等の八坂神社に合祀して三社の頭字《かしらじ》を集めて八立稲《やたていね》神社と称せしめたるも、西の王子の氏子承知せず、他大字と絶交し一同社費を納めず、監獄へ入れると脅すも、入れるなら本望なり、大字民七十余戸ことごとく入獄されよと答え、祭日には多年恩を蒙りし神社を潰すような神職は畜生にも劣れりとて、坊主を招致し経を読ませ祭典を済ます。神か仏かさっぱり分からず。よって懲らしめのため神社跡地の樹林を伐り尽さしめんと命ぜしも、この神林を伐ればたちまち小山崩れて人家を潰す上、その下の官道を破るゆえ、事行なわれず。ついに降参して郡衙《ぐんが》より復社を黙許せり。
また南富田《みなみとんだ》村の金刀比羅《ことひら》社は、古え熊野の神ここに住みしが、海近くて波の音|聒《やかま》しとて本宮へ行けり。熊野三景の一とて、眺望絶佳の丘上に七町余歩の田畑山林あり。地震|海嘯《つなみ》の節大用ある地なり。これを無理に維持困難と詐称して他の社へ合祀せしめしも、村民承知せず、結党して郡衙に訴うること止まず、ついに昨年末県庁より復社を許可す。可笑《おか》しきは合祀先の神社の神職が、神社は戻るとも神体は還しやらずとて、おのれをその社の兼務させくれるべき質《しち》に取りおる。しかるに真正の神体は合祀のみぎり先方へ渡さず隠しありしゆえ、復社の一刹那すでに帰り居たまう。燕石|十襲《じっしゅう》でこの神主の所行笑うに堪えたり。この他にも合祀の際、偽神体を渡し、真の神体を隠しある所多しと聞く。
かつて薩摩の人に聞きしは、太閤本願寺僧をしてその国を細作せしめしより、島津大いに恨み一向宗を厳禁せしも、士庶のその宗旨を奉ずる者、弥陀仏像を柱の中に収め朝夕|看経《かんきん》して維新後に及べり、と。白石が岩松氏に与えたる書翰にも、甲州の原虎胤が信玄より改宗を勧められて肯《がえ》んぜず相模に走りしことや、内藤如安、高山友祥が天主教を止めず、甘んじて呂宋《ルソン》に趣きしことを論じて、こは宗教上の迷信厚きに過ぎしのみなるべからず、実は祖先来自分が思い込んで崇奉する宗旨を、何の訳もなく、当時の執政当局者に気に入らぬという一事のみのゆえに、たちまち棄てて顧みずとは、いかにも人間らしく、男らしくも、武士らしくもないと思い詰めたる意気の上より出でたることならん、と言えり。
上述の村民らの志も、また愛国抗外心の一原素として強いて咎むべからざるにや。また西行の『山家集』に名高き八上王子《やかみのおうじ》、平重盛が祈死で名高き岩田王子等も、儼然として立派に存立しおるを、岩田村役場の直前なる、もと炭焼き男の庭の鎮守たりし小祠を村社と指定し、これに合併し、その跡の神林(シイノキの大密林なり、伊藤篤太郎博士の説に、支那、日本にのみ見る物なれば、もっとも保護されたしとのこと)、カラタチバナなどいう珍植物多きを伐り尽して、村吏や二、三の富人の私利を営まんと巧みしを、有志の抗議で合祀は中止したが、無理往生に差し出さしめたる合祀請願書は取り消さざるゆえ、何時亡びるか分からず。全国に目下合祀準備中のもの二万二千余あると、当局が得々と語るは、多くはこの類の神社暴滅に罹《かか》らんとするものと知らる。モンテスキューいわく、虐政の最も虐なるは法に執《しゅう》して虐を行なうものなり、と。吾輩外国人の書を読み、かかる虐政行なわれたればこそ仏国に大不祥の事変を生出せるなれと、余所事《よそごと》に聞き流したる当時を、今となって反って恋しく思うなり。
次に熊野第二の宮と呼ばるる高原王子は、八百歳という老大樟あり。その木を※[#「※」は「亞+きん」、495−8]《けず》りて神体とす。この木を伐らせ、コミッションを得んとする役人ら、毎度合祀を勧めしも、その地に豪傑あり、おもえらく、政府真に合祀を行なわんとならば、兵卒また警吏を派して一切人民の苦情を払い去り、一挙して片端から気に入らぬ神社を潰して可なり。しかるに、迂遠千万にも毎々旅費日当を費やし官公吏を派し、その人々の、あるいは脅迫し、あるいは甘言して請願書に調印を求むること、怪しむに堪えたり。必竟合祠の強行は政府の本意にあらじ、小役人私利のためにするところならんとて、五千円の基本金を一人して受け合う。さてその金の催促に来るごとに、役人を近村の料理屋へ連れ行き乱酔せしめ、日程尽き、役人|忙《あわ》て去ること毎度なり。そのうちに基本金多からずとも維持の見込み確かならば合祀に及ばずということで、この社は残る。
次の十丈《じゅうじょう》の王子は、役場からその辺の博徒二人に誨《おし》えて、汝らこの社に因縁ある者と称えて合祀を願い出でよ、しかる時は酬《むく》ゆるに神林の幾分を与うべしとのことで、終《つい》に合祀す。件の悪党、自分にくれた物と思い、その樹林を伐採して売りしを、盗伐と称え告訴し、二人入獄、一人は牢死せり。官公吏が合祀を濫用して姦を勧め、史蹟名勝を滅せし例は、この他にも多く、これがため山地は土崩れ、岩墜ち、風水の難おびただしく、県庁も気がつき、今月たちまち樹林を開墾するを禁ずるに及べり。しかれども合祀依然行なわれおれば、この禁令も何の功なからん。かかる弊害は、紀州のみならず、埼玉、福島、岡山、鳥取諸県よりも聞き及ぶ。
合祀濫用のもっともはなはだしき一例は紀州西牟婁郡近野村で、この村には史書に明記せる古帝皇奉幣の古社六つあり(近露王子、野中王子、比曽原王子、中川王子、湯川王子、小広王子)。一村に至尊、ことにわが朝の英主と聞こえたる後鳥羽院の御史蹟六つまで存するは、恐悦に堪えざるべきはずなるに、二、三の村民、村吏ら、神林を伐りて営利せんがため、不都合にも平田内相すでに地方官を戒飭《かいちょく》し、五千円を積まずとも維持確実ならば合祀に及ばずと令したるはるか後に、いずれも維持困難なりと詐《いつわ》り、樹木も地価も皆無なる禿山頂へ、その地に何の由緒なき無格社金毘羅社というを突然造立し、村中の神社大小十二ことごとくこれに合祀し、合祀の日、神職、衆人と神体を玩弄してその評価をなすこと古道具に異ならず。この神職はもと負荷人足《にもちにんそく》の成上りで、一昨冬妻と口論し、妻首|縊《くく》り死せる者なり。かくて神林伐採の許可を得たるが、その春日社趾には目通り一丈八尺以上の周囲ある古老杉三本あり。
また野中王子社趾には、いわゆる一方杉とて、大老杉、目通り周囲一丈三尺以上のもの八本あり。そのうち両社共
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