神社合祀に関する意見
南方熊楠

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 最初、明治三十九年十二月原内相が出せし合祀令は、一町村に一社を標準とせり。ただし地勢および祭祀理由において、特殊の事情あるもの、および特別の由緒書あるものにして維持確実なるものは合祀に及ばず、その特別の由緒とは左の五項なり。
 (1)[#以下、この段落の数字付き()は一字扱いである。]『延喜式』および『六国史』所載の社および創立年代これに準ずべきもの、(2)勅祭社、準勅祭社、(3)皇室の御崇敬ありし神社(行幸、御幸、奉幣、祈願、殿社造営、神封、神領、神宝等の寄進ありし類)、(4)武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬ありし社(奉幣、祈願、社殿造営、社領、神宝等の寄進ありし類)、(5)祭神、当該地方に功績また縁故ありし神社。
 神社には必ず神職を置き、村社は年に百二十円以上、無格社は六十円以上の報酬を出さしむ。ただし兼務者に対しては、村社は六十円、無格社は三十円まで減ずるを得。また神社には基本財産積立法を設け、村社五百円以上、無格社二百円以上の現金、またこれに相当する財産を現有蓄積せしむ、とあり。つまり神職もなく、財産、社地も定まらざる廃社同前のもの、また一時流行、運命不定の淫祠、小祠の類を除き、その他在来の神社を確立せしめんと力《つと》めたるもののごとし。
 しかるにこの合祀令の末項に、村社は一年百二十円以上、無格社は六十円以上の常収ある方法を立てしめ、祭典を全うし、崇敬の実を挙げしむ、とあり。祭典は従来氏子人民好んでこれを全うし、崇敬も実意のあらん限り尽しおれり。ただ規定の常収ある方法を新たに立てて神社を保存せんとするも、幾年幾十年間にこの方法を確立すべしという明示なく、かつ合祀の処分は、一にこれを府県知事の任意に任せ、知事またこれを、ただただ功績の書上《かきあげ》のみを美にして御褒美に預らんとする郡長に一任せしより、他方の官公吏は、なるべくこれを一時即急に仕上げんとて氏子輩に勧めたるも、金銭は思うままに自由ならず。よって今度は一町村一社の制を厳行して、なるたけ多くの神社を潰すを自治制の美事となし、社格の如何《いかん》を問わず、また大小と由緒、履歴を問わず、五百円積まば千円、千円積まば二千円、それより三千円、和歌山県ごときは五千円、大阪府は六千円まで基本財産を値上げして、即急に積み立つる能わざる諸社は、強いて合祀請願書に調印せしむ。
 むかし孔子は、兵も食も止むを得ずんば捨つべし。信は捨つべからず、民《たみ》信なくんば立たず、と言い、恵心僧都は、大和の神巫《みこ》に、慈悲と正直と、止むを得ずんばいずれを棄つべきと問いしに、万止むを得ずんば慈悲を捨てよ、おのれ一人慈悲ならずとも、他に慈悲を行なう力ある人よくこれをなさん、正直を捨つる時は何ごとも成らず、と託宣ありしという。俗にも正直の頭《こうべ》に神宿ると言い伝う。しかるに今、国民元気道義の根源たる神社を合廃するに、かかる軽率無謀の輩をして、合祀を好まざる諸民を、あるいは脅迫し、あるいは詐誘して請願書に調印せしめ、政府へはこれ人民が悦んで合祀を請願する款状《かんじょう》なりと欺き届け、人民へは汝らこの調印したればこそ刑罰を免るるなれと偽言する。かく上下を一挙に欺騙《ぎへん》する官公吏を、あるいは褒賞し、あるいは旌表《せいひょう》するこそ心得ね。さて一町村に一社と指定さるる神社とては、なるべく郡役所、町村役場に接近せる社、もしくは伐るべき樹木少なき神社を選定せるものにて、由緒も地勢も民情も信仰も一切問わず、玉石混淆、人心恐々たり。
 拙見をもってすれば、従来神恩を戴き神社の蔭で衣食し来たりし無数の神職のうち、合祀の不法を諤議《がくぎ》せるは、全国にただ一人あるのみ。伊勢四日市の諏訪神社の社司|生川《なるかわ》鉄忠氏これなり。この人、四十一年二月以降の『神社協会雑誌』にしばしば寄書して、「神社整理の弊害」を論ぜる、その言諄として道理あり。今その要を撮し、当時三重県における合祀の弊害を列挙せん。いわく、従来一社として多少荘厳なりしもの、合祀後は見すぼらしき脇立小祠となり、得るところは十社を一社に減じたるのみ。いわく、従来大字ごとになし来たれる祭典、合祀後は張り合いなし、するもせぬも同じとて全く祭典を廃せる所多し。いわく、合祀されし社の氏子、遠路を憚り、ことごとく合祀先の社へ参り得ざるをもって、祭日には数名の総代人を遣わすに、多勢に無勢で俘虜降人同然の位置に立つをもって、何のありがたきことなく早々逃げ帰る。言わば合祀先の一大字のみの祭典を、他の合祀されたる諸大字が費用を負担する訳になり、不平絶えず。いわく、合併社趾の鬱蒼たりし古木は、伐り払われ、売られ、代金は疾《と》くに神事以外の方面に流通し去られて、切株のみ残りて何の功なし。古木などむやみに伐り散らすは人気を荒くし、児童に、従来あり来たりし旧物一切破壊して悔ゆることなかるべき危険思想を注入す。いわく、最も不埒なるは、神殿、拝殿等、訓令の制限に合わぬ点を杉丸太で継ぎ足し、亜鉛葺き等一時|弥縫《びほう》をなし、いずれ改造する見込みなり、当分御看過を乞う等で、そのまま放置する。いわく、多年等閑に付し来たれる神社を、一朝厳命の下に、それ神職を置け、基本金を積めと、短兵急に迫られし結果、氏子|周章《しゅうしょう》、百方工夫して基本金を積み存立を得たるも、また値上げ、また値上げとなり底止《ていし》するところを知らず。造営までなかなか手が届かぬを定規《ていき》に背くとて無理に合祀するは苛刻《かこく》もはなはだし矣。いわく、神官の俸給を増し与えたりとて、即刻何の効験、化育の功績も目に見えるほど挙がらず。従前と変わりしこともなければ、氏子また策を運らし、俸給を定規より少なく神職に与え、ないよりは増しだろう、ぐずぐず言わば合祀するぞ、と今度は氏子より神職を脅し、実際は割引で与えながら規定の俸給を受けおるような受取証を書かすこと。熊楠いわく、むかしより伊勢人は偽り多しと言うので、仮作の小説たるを明示するため『伊勢ィ語』と言う書題を設けたと申す。まことに本家だけあって、三重県の御方々《おんかたがた》には格別の智恵がある、和歌山県に行なわるる合祀の弊害はことごとく生川氏の指摘せるところに異ならぬが、神職の俸給を割引して受取書を偽造させるようなものは、いまだ和歌山県に聞き及ばず。しかし、追い追いは出で来るならん。生川氏、結論にいわく、右のごときはただ埒明的《らちあきてき》合祀にて、神社の整理か縮少か将《はた》破壊か、かかる神社と神職とに地方自治の中枢たらんことを望むは間違いもはなはだし、これを神道全体の衰頽と言うべしと断ぜられたるは、まことに末《すえ》を見透せし明ありと嘆息の外なし。
 かくて三重県に続いて和歌山県に合祀の励行始まり、何とも看過しがたきもの多きより、熊楠諸有志と合祀反対の陣を張り、地方および京阪の新聞紙をもってその説を主張すること年あり。明治四十三年三月二十三日、同志代議士中村啓次郎氏衆議院において一場の質問演説をなし、次に四十四年三月三十日大臣官房において、中村氏、平田〔東‖助〕内相と面会し、熊楠|撮《と》り置ける紀州諸名社濫滅名蹟亡滅の写真を示してこのことを論じたるのち、内相よりその年の貴族院にても中村氏同様の質問盛んに起これる由を承知し、また内相も中村氏と同一意見を持し、一時に基本金を積ましめ一村一社の制を励行するを有害と認むれば、四月の地方官会議に再び誤解なからしむるよう深く注意を加うべし、と約束さる。(この四月の地方官会議に多少の訓示ありしは、白井氏、前日井上神社局長より得たる秘密書類の写しで明らかなり。ただし少しも実行されず。)そののち聞くところによれば、四十三年六月ごろ、基本財産完備せずとも維持の見込み確実なる諸神社は合祀に及ばずと令ありしとのことながら、地方郡役所へは達しおらず。さて合祀は年を逐うて強行さる。その結果、去年十二月十九日と今年一月二十日の『読売新聞』によれば、在来の十九万四百社の内より、すでに府県社五、郷社十五、村社五千六百五十二、無格社五万千五百六十六、計五万七千二百三十八社を合併しおわり、目下合併準備中のもの、府県社一、郷社十二、村社三千五百、無格社一万八千九百、計二万二千四百十三社あり。残れる十一万ばかりの神社もなお減ずべき見込み多ければ、本年度より地方官を督励して一層これを整理し、また一方には神社境内にある社地を整理せしむべし、とその筋の意嚮を載せたり。また当局は、合祀によって郷党の信仰心を高め、おびただしく基本金を集め得たる等、その効果著し、と言明する由を記せり。
 そもそも全国で合祀励行、官公吏が神社を勦蕩《そうとう》滅却せる功名高誉とりどりなる中に、伊勢、熊野とて、長寛年中に両神の優劣を勅問ありしほど神威高く、したがって神社の数はなはだ多かり、士民の尊崇もっとも厚かりし三重と和歌山の二県で、由緒古き名社の濫併《らんぺい》、もっとも酷《ひど》く行なわれたるぞ珍事なる。すなわち三重県の合併はもっともはなはだしく、昨年六月までに五千五百四十七社を減じて九百四十二社、すなわち在来社数のわずかに七分一ばかり残る。次は和歌山県で、昨年十一月までに三千七百社を六百社、すなわち従前数の六分一ばかりに減じ、今もますます減じおれり。かかる無法の合祀励行によって、果たして当局が言明するごとき好結果を日本国体に及ぼし得たるかと問うに、熊楠らは実際全くこれに反せる悪結果のみを睹《み》るなり。
 よってその九牛の一毛を例示せんに、西牟婁郡川添村は、十|大字《おおあざ》、九村社、五無格社、計十四社を滅却伐木して市鹿野《いちがの》大字の村社に合祀し、基本金一万円あるはずと称せしに、実際神林を伐り尽し、神殿を潰し、神田を売却して、得たるところは皆無に近かりし証拠は、この神殿が雨風のために破損を生じ、雨洩りて神体を汚すまでも久しく放置し、神職を詰《なじ》るに、全く修繕費金なしとのことなり。
 また日高郡|上山路《かみさんじ》村は、大小七十二社を東《ひがし》大字の社に合併し、小さき祠《ほこら》はことごとく川へ流さしむ。さて神体等を社殿へ並べて衆庶に縦覧せしめけるに、合祀を好まぬ狂人あり、あらかじめ合祀行なわるれば必ず合祀社を焼くべしと公言せしが、果たしてその夜、火を社殿に放ち、無数の古神像、古文書、黄金製の幣帛《へいはく》、諸珍宝、什器、社殿と共にことごとく咸陽《かんよう》の一炬《いっきょ》に帰す。惜しむべきのはなはだしきなり。むかし水戸義公は日本諸寺社の古文書を写させ、水災を虞《おそ》れて一所に置かず、諸所に分かち置かれしという。金沢文庫、足利文庫など、いずれも火災少なき辺土に立てられたり。件《くだん》の上山路村の仕方は、火災の防ぎ十分ならぬ田舎地方の処置としては、古人の所為に比してまことに拙き遣方《やりかた》とやいわん。さて焼けたる諸社の氏子へ一向通知せず、言わば神社が七十二も焼けたるは厄介払いというような村吏や神職の仕方ゆえ、氏子ら大いに憤り、事に触れて、一カ月前にも二大字|合従《がっしょう》して村役場へ推しかけ荒々しき振舞いありし。件の社の焼跡へ、合祀されたるある社の社殿を持ち来たり据えたるに、去年秋の大風に吹き飛ばされ、今に修覆成らず。人心合祀を好まず、都会には想い及ばざる難路を往復五、六里歩まずば参り得ぬ所ゆえ、大いに敬神の念を減じ、参らぬ神に社費を納めぬは自然の成行きなり。
 熊野は本宮、新宮、那智を三山と申す。歴代の行幸、御幸、伊勢の大廟よりはるかに多く、およそ十四帝八十三回に及べり。その本宮は、中世実に日本国現世の神都のごとく尊崇され、諸帝みな京都より往復二十日ばかり山また山を
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