」、504−1]《つと》め、あるいは枯損木と称して枯損にあらざる神木を伐り売るような神職が、何を誦し何を講じたりとて、人民はこれ狼が説法して羊を欺き、猫が弾定に入ると詐《いつわ》って鶏を攘《ぬす》まんとするに等しと嘲弄し、何の傾聴することかあらん。まのあたり古社、旧蹟を破壊して、その惜しむに足らざるを示し、さて一方に無恥不義きわまる神職をして破壊主義の発生を妨遮せしめんとするは、娼妓に烈女伝を説かしめ、屠者に殺生禁断を主張せしむるに異ならず。
むかし隋の煬帝《ようだい》、父を弑し継母を強姦し、しかして仏教を尊信することはなはだし。車駕一たび出で還らず、身凶刃に斃る。後世、仏者曲説保護せんとするも、その弁を得ず、わずかにこれこの菩薩濁世に生まれて天子すら悪をなすべからざるの理を実証明示せるなりと言う。嗚呼《ああ》今の当局もまた後日わずかにかの人々は宰相高官すら神社を滅却すればその罪の到来する、綿々として断えず、国家の大禍をなすを免れずという理を明証せる権化の再誕なりと言われて安んぜんとするか。今日のごとき不埒な神職に愛国心や民の元気を鼓吹せしめんと謀るは、何ぞ梁の武帝が敵寇至るに沙門を集めて『摩訶般若心経』を講じて虜《とりこ》となり餓死せしに異ならん。むかし張角乱を作《な》せしとき、漢廷官人の不心得を諷して向翔と言える人、兵を将《ひき》い河上に臨み北向して『孝経』を読まば賊必ず自滅すべし、と言えり。また北狄《ほくてき》が漢地を犯せし時、太守宋梟、涼州学術少なし、故にしばしば反す、急に『孝経』を多く写させ家々習読せしめば乱たちまち止みなん、と言えり。神社合祀で危険思想を取り締らんとするは、ほとんどこの類なり。
和歌山県の神主の総取締りする人が新聞で公言せしは、神社は正殿、神庫、幣殿、拝殿、着到殿、舞殿、神餐殿、御饌殿、御炊殿、盛殿、斎館、祓殿、祝詞屋《のつとや》、直殿、宿直所、厩屋、権殿、遙拝所の十八建築なければ設備全しと言うべからずとて、いかに神林大いに茂り四辺神さびたる神社を見るも、設備足らずとてこれを滅却す。今時かかる設備全き神社が、官国幣社を除きて何所《いずく》にかあるべき。真に迂儒《うじゅ》が後世に井田《せいでん》を復せんとし、渡天の律僧がインドより支那に帰りて雪中裸かで水で肛門を浄むるに等しき愚説なり。神殿は絶えず破損し通すものにあらず。用いようによりては地方に大利潤あるべき金銭を、この不景気はなはだしき世にかかる何の急用なき備えに永久蓄積せしむるは、世間財理の融通を障《さえぎ》り、不得策のはなはだしきで、地方に必要の活金《いきがね》を地下に埋め投ずに同じ。神社の基本金いかに殖えるとも、土地がそれ相応に繁昌せずば何の甲斐あらん。いわんや、実際地方には必ず多少の姦徒あり、種々方策してこの基本金を濫用し去らんとする輩多きをや。一昨年の『和歌山新報』によれば、有田郡奥山村の白山社を生石《おいし》神社に併せ、社趾の立木売却二千五百円を得、合祀費用三百五十円払いて、残り二千百五十円行方不明、石磴《いしだん》、石燈籠、手水鉢等はことごとく誰かの分捕りとなる。かかる例多きゆえ、『紀南新報』に、今の合祀の遣《や》り方では、故跡旧物を破壊して土俗を乱して得るところは狸一疋くらいに止まる、いっそ郡村の役所役場より比較的正直確実なる警察署に合祀処分を一任しては如何《いかん》、と論ぜる人ありしは明論なり。
また従来最寄りの神社参詣を宛て込み、果物、駄菓子、鮓《すし》、茶を売り、鰥寡《かんか》貧弱の生活を助け、祭祀に行商して自他に利益し、また旗、幟《のぼり》、幕、衣裳を染めて租税を払いし者多し。いずれも廃社多きため太《いた》く職を失い難渋おびただし。村民もまた他大字の社へ詣るに衣服を新調し、あるいは大いに修補し、賽銭も恥ずかしからぬよう多く持ち、はなはだしきは宿り掛けの宿料を持たざるべからず。以前は参拝や祭礼にいかに多銭を費やすも、みなその大字民の手に落ちたるに、今は然らず、一文失うも永くこの大字に帰らず、他村他大字の得《とく》となる。故に参詣自然に少なく、金銭の流通一方に偏す。西牟婁郡|南富田《みなみとんだ》の二社を他の村へ合祀せしに、人民他村へ金落とすを嫌い社参せず騒動す。よって県庁より復社を命ぜしに、村民一同大悦しておのおの得意の手伝いをなし、三時間にして全く社殿を復興完成せり。信心の集まる処は、金銭よりも人心こそ第一の財産と知らるなれ。
日高郡|三又《みつまた》大字は、紀伊国で三つの極寒村の第一たり。十人と集まりて顔見合わすことなしという。ここに日本にただ三つしかなきという星の神社あり。古え明星この社頭の大杉に降《くだ》りしを祭る。祭日には、十余里界隈、隣国大和よりも人郡集し、見世物、出店おびただしく、その一日の上り高で神殿を修覆し貯蓄金もできしなり。しかるを村吏ら強制して、至難の山路往復八里距てたる竜神大字へ合祀せしむ。さて従前に比して社費は二、三倍に嵩《かさ》むゆえに、樵夫、炭焼き輩払うことならず、払わずば社殿を焼き払い神木を伐るべしと逼《せま》られ、常に愁訴断えず。西洋には小部落ごとに寺院、礼拝堂あり、男女群集して夜市また昼市を見物し、たとい一物を買わずとも散策運動の便《たより》となり、地方繁栄の外観をも増すが常なるに、わが邦にはかかる無謀の励行で寂寥たる資材をますます貧乏せしむるも怪しむべし。
すべて神社の樹木は、もとより材用のために植え込み仕上げたるにあらざれば、枝が下の方より張り、節多く、伐ったところが価格ははなはだ劣る。差し迫りしこともなきに、基本金を作ると称し、ことごとくこれを伐らしむるほどますます下値となる。故に神林ことごとく伐ったところが何の足しに成らず、神社の破損は心さえ用うれば少修理で方《かた》つくものなれば、大破損を待って遠方より用材を買い来て修覆するよりは、従来ごとく少破損あるごとにその神社の林中より幾分を伐ってただちにこれを修めなば事済むなり。置かば立派で神威を増し、伐らば二束三文の神林を、ことごとく一時に伐り尽させたところが、思うほどに売れず、多くは焚料《たきもの》とするか空しく白蟻を肥やして、基本金に何の加うることなき所多し。金銭のみが財産にあらず、殷紂は宝玉金銀の中に焚死し、公孫※[#「※」は「おうへん+贊」、読みは「さん」。507−13]は米穀の中に自滅せり。いかに多く積むも扱いようでたちまちなくなる、殆《あやう》きものは金銭なり。神林の樹木も神社の地面も財産なり。火事や地震の節、多大の財宝をここに持ち込み保全し得るは、すでに大倉庫、大財産なり。確固たる信心は、不動産のもっとも確かなるものたり。信心薄らぎ民に恒心なきに至らば、神社に基本金多く積むとも、いたずらに姦人の悪計を助長するのみ。要するに人民の好まぬことを押しつけて事の末たる金銭のみを標準に立て、千百年来地方人心の中点たり来たりし神社を滅却するは、地方大不繁昌の基なり。
第四に、神社合祀は国民の慰安を奪い、人情を薄うし、風俗を害することおびただし。『大阪毎日新聞』で見しに、床次《とこなみ》内務次官は神社を宗教外の物と断言し、さて神社崇敬云々と言いおる由。すでに神を奉祀して神社といい、これを崇敬する以上は、神社は宗教内のものたること明らけし。仏を祀る仏寺、キリストを拝する耶蘇教寺と何の異あらん。憲法第二十八条すでに信仰の自由を公許さる。神道に比べて由緒はるかに劣れる天理教、金光教すら存立を許しおれり。神祇は、皇祖皇宗およびその連枝また末裔、もしくは一国に功勲ありし人より下りて一地方一村落に由緒功労ありし人々なり。人民これを崇敬するは至当のことなり。神霊は見るべからず、故に神社を崇拝するは耶蘇徒が十字架や祭壇を敬するに同じ。床次次官、先年欧米を巡廻し帰りて、その諸国いずれも寺院、礼拝堂多きを教化の根本と嘆賞せり、と聞く。わが神社何ぞ欧米の寺院、礼拝堂に劣らんや。ただそれ彼方《かなた》には建築用材多く、したがって偉大耐久の寺院多し。わが国は木造の建築を主とすれば、彼方ごとき偉大耐久のもの少なし。故に両大神宮を始め神社いずれも時をもって改造改修の制あり。欧米人の得手勝手で、いかなる文明開化も建築宏壮にして国亡びて後までも伝わるべきものなきは真の開化国にあらずなどいうは、大いに笑うべし。バビロン、エジプト等久しく建築物残りて国亡びなんに、どれほどの開化ありたりとてその亡民に取りて何の功あらん。中米南米には非凡の大建築残りて、誰がこれを作りしか、探索の緒《いとぐち》すらなきもの多し。外人がかかる不条理をいえばとて、縁もなき本邦人がただただ大妓になるべき意気な容姿なきは悦ぶに足らずと憂うると異ならず。娘が芸妓にならねば食えぬようになりなんに、何の美女を誇り悦ぶべき。欧米論者の大建築を悦ぶは、これ「芸が身を助くるほどの不仕合せ」を悦ぶ者たり。
ただし、わが国の神社、建築宏大ならず、また久しきに耐えざる代りに、社ごとに多くの神林を存し、その中に希代の大老樹また奇観の異植物多し。これ今の欧米に希《まれ》に見るところで、わが神社の短処を補うて余りあり。外人が、常にギリシア・ローマの古書にのみ載せられて今の欧米に見る能わざる風景雅致を、日本で始めて目撃し得、と歎賞|措《お》かざるところたり。欧州にも古えは神林を尊び存せしに、キリスト教起こりて在来の諸教徒が林中に旧教儀を行なうを忌み、自教を張らんがために一切神林を伐り尽せしなり。何たる前見の明ありて、伐木せしにあらず、我利のために施せし暴挙たり。それすら旧套を襲いて在来の異神の神林をそのまま耶蘇教寺の寺林とし、もってその風景と威容を副えおる所多し。市中の寺院に神林なく一見荒寥たるは、地価きわめて高く、今となって何とも致し方なきによる。これをよきことと思いおるにはあらじ。されば菊池幽芳氏が、欧州今日の寺院、建築のみ宏壮で樹林池泉の助けなし、風致も荘麗も天然の趣きなければ、心底から人心をありがたがらせ清澄たらしむることすこぶる足らず、と言えるは言の至れるなり。後年日本富まば、分に応じて外国よりいかなる大石を買い入れても大社殿を建て得べし。千百年を経てようやく長ぜし神林巨樹は、一度伐らば億万金を費やすもたちまち再生せず。熊沢伯継の『集義書』に、神林伐られ水|涸《か》れて神威|竭《つ》く、人心乱離して騒動絶えず、数百年して乱世中人が木を伐るひまなきゆえ、また林木成長して神威も暢るころ世は太平となる、といえり。止むを得ぬことといわばそれまでなれど、今何の止むを得ぬこともなきに、求めて神林を濫伐せしめ、さて神林再び長じ神威人心の復帰するまで、たとい乱世とならずとも数百年を待たねばならぬとあっては、当局者の再考を要する場合ならずや。
神社の社の字、支那では古く二十五家を一社とし、樹を植えて神を祭る。『白虎通』に、社稷に樹あるは何の故ぞ、尊んでこれを識して民人をして望んでこれを敬せしむ、これに樹《う》うるにその地に産する木をもってす、とある由。大和の三輪明神始め熊野辺に、古来老樹大木のみありて社殿なき古社多かりし。これ上古の正式なり。『万葉集』には、社の字をモリと訓《よ》めり。後世、社木の二字を合わせて木ヘンに土(杜字)を、神林すなわち森としたり。とにかく神森ありての神社なり。昨今三千円やそこらの金を無理算段して神社の設備大いに挙がると称する諸社を見るに、すでに神林の蓊鬱《おううつ》たるなきゆえ、古えを忍ぶの神威を感ずのという念毛頭起こらず。あたかも支那の料理屋の庭に異ならず。ひたすら維持維持と言いて古制旧儀に背き、ブリキ屋根から、ペンキ塗りの鳥居やら、コンクリートの手火鉢、ガスの燈明やらで、さて先人が心ありて貴重の石材もて作り寄進せしめたる石燈籠、手水鉢、石鳥居はことごとく亡われ、古名筆の絵馬はいつのまにやら海外へ売り飛ばされ、その代りに娼妓や芸者の似顔の石板画や新聞雑誌の初刊付録画を掛けておる。外人より見れば、かの国公園内の雪隠か動物園内の水茶屋ほどの※[#「※」は「くさかんむり+最」、511−
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