、地方および京阪の新聞紙をもってその説を主張すること年あり。明治四十三年三月二十三日、同志代議士中村啓次郎氏衆議院において一場の質問演説をなし、次に四十四年三月三十日大臣官房において、中村氏、平田〔東‖助〕内相と面会し、熊楠|撮《と》り置ける紀州諸名社濫滅名蹟亡滅の写真を示してこのことを論じたるのち、内相よりその年の貴族院にても中村氏同様の質問盛んに起これる由を承知し、また内相も中村氏と同一意見を持し、一時に基本金を積ましめ一村一社の制を励行するを有害と認むれば、四月の地方官会議に再び誤解なからしむるよう深く注意を加うべし、と約束さる。(この四月の地方官会議に多少の訓示ありしは、白井氏、前日井上神社局長より得たる秘密書類の写しで明らかなり。ただし少しも実行されず。)そののち聞くところによれば、四十三年六月ごろ、基本財産完備せずとも維持の見込み確実なる諸神社は合祀に及ばずと令ありしとのことながら、地方郡役所へは達しおらず。さて合祀は年を逐うて強行さる。その結果、去年十二月十九日と今年一月二十日の『読売新聞』によれば、在来の十九万四百社の内より、すでに府県社五、郷社十五、村社五千六百五十二
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