手に達せずと。人々男の小さきは生まれ付きなり、能の上手下手に係らずやと問うと、太夫、善知鳥《うとう》の曲舞《くせまい》に鹿を追う猟師は山を見ずという古語を引き居る。鹿に全く心取らるれば山の有無も知れぬものだ。我が芸まことに上手なら見物はそれに心取られてわが男の大小などに気付かぬはずだ。我が芸未熟なればこそ男の小さきが目に立ったのだと語るを聞いて、皆人誠に物の上手は別な物と感心したそうだ。
舜は邇言《じげん》を察したとか。今日書物で読んでさも自分が煉《ね》り出したように、科学の学識のと誇る事どもも皆過去無数|劫《こう》の間不文の衆人が徐々に観察し来った功績の積もった結果だから、読書しない人の言を軽んずべきでなく、未開半開人も驚くべき経験上の知識を持ち居る例多い。お江戸日本橋七つ立ち、初《はつ》上りの途に著いてから都入りまで五十三駅の名を作り入れた唄を、われら学生の時唄いながら箱根山を下駄穿《げたば》きで越えて夏休みに帰国したものだ。その内に「上る箱根の御関所でちょいとまくり、若衆の物では受け取れぬ、こちゃあ新造でないかとちょと三島」てふ名句があった。箱根の関を婦女が通るは厳禁で、例せば文政十一年本多近江守長崎奉行勤務中、その足軽《あしがる》島田|惣之助《そうのすけ》は舞袖事たき十九歳、同じく西村新三郎は歌扇事かね二十歳という娼妓を買いなじみ、たきは夫婦約束、かねは身請けされて親元に在《い》たところ、十二年十月男二人とも出立に付き、たき惣之助を慕い駈落してかねに落ち合い、たきは若衆姿に化けて関所を通り、両人とも江戸へ著いた咎《とが》で奴《やっこ》にされ、惣之助は二十七歳で死刑と天保二年筒井伊賀守役宅で宣告された(『宝暦現来集』二一)。かかる犯罪予防のため関所で少年姿の秘部を検したから「ちょいと捲《まく》り云々」と唄うたものだ。『明月記』に天福元年十一月御法事の夜僧房の童が女の姿で堂上に昇り、大番武士に搦《から》めらるとあり。『書紀』に小碓命《おうすのみこと》少女の装いで川上|梟師《たける》を誅《ちゅう》したと出で、婦女男装して復仇したり、役者が女装して密通したりなど往々聞くが(『拾遺|御伽婢子《おとぎぼうこ》』三の三、『甲子夜話』続二一)、多くはその場だけで事済み、外国のような大騒ぎ社会を害毒するの甚だしきに至らぬ。エジプト等の回教国には婦女閉居して男子を見ず。女客の往来すこぶる自在で、妻妾の室の入口に女客の靴あらば、夫も遠慮して引き還す。故に女装の男子容易に奸を行う(一八四六年パリ版、コンブ『埃及《エジプト》行記』二三頁)。これら諸国に常習の女装男子、男装女子あり。また半男女《ふたなり》また閹人《えんじん》あり。各男装女装して事を行えばその犯罪夥しく社会動揺少なからず。仏国のデオンごとき男子女装して常に外交や国事探偵に預かり、死尸《しかばね》を検するまで男女いずれと別らず、大いに諸邦を手古摺《てこず》らせた。
支那の明の成化間石州の民|桑※[#「栩のつくり+中」、331−7]《そうちゅう》、幼より邪術を学び纏足《てんそく》女装し、女工を習い寡婦を粧《よそお》い、四十五州県に広く遊行し人家好女子あらば女工を教うるとて密処に誘い通ず。女従わざれば迷薬呪語もて動くも得ざらしめ辱《はずか》しむ。女名を敗るを畏《おそ》れついに口外せず。かくのごとく数夕してすなわち他処に移る故久しくても敗れず。男子の声を聞かば奔《はし》り避けた。かくのごとき事十余年、河南北、直隷、山東、山西に※[#「彳+編のつくり」の「戸」に代えて「戸の旧字」、第3水準1−84−34]遊して大家の室女百八十二人を汚す。後《のち》晋州に至り高秀才の家に宿る。その婿趙文挙|酷《ひど》く寡婦を好み、自分の妻を妹と詐《いつわ》り、延《ひ》き入れて同宿せしめ中夜にこれに就くに※[#「栩のつくり+中」、331−13]大いに呼んで従わず。趙無理やりその衣を剥げば男子なり。官に送り糾明するに実を吐き、その師大同の谷才この術を行うたが既に死んだ。その党任茂、張端等十余人各途を分ち非行すと。急ぎ捕えて罪定まり皆|磔殺《たくさつ》された。※[#「栩のつくり+中」、331−15]の門人王大喜その術をその弟王二喜に伝え、二喜十八、九歳の艶女に化け裁縫絶巧兼ねて婦女を按摩《あんま》す。かくて行う事久しからず、やっと十六人に施した後《のち》東昌に至り、馬万宝の隣家に宿る。一度嫁したが舅姑に虐げられて脱れ出たという。馬これを垣間見《かいまみ》、瓢金《ひょうきん》なその妻と謀り自分は飲みに出たと称し妻をして疾に托して王を招かしめた。さて妻が厨舎の門を閉づるとて燭を隠し出で往いた跡へ素早く馬が入れ替り居るとは白歯の似せ娘、馬をその妻と心得按腹する指先で男と判《わか》り、逃げかかる処を馬が止め検すればこれも立派な男子の証拠儼然たり。妻を呼び燈を執り詰《なじ》ってその実を知り、告発せんにも余り可愛らしい。ついに取って押えてこれを宮し、創《きず》を療じた後、これ我が表姪王二姐とて、生まれ付いた無性人で夫に逐《お》われたとこの頃知ったから妻の伴とし置くと称し、昼は下女同然に賄《まかな》わせ使い、夜はすなわち狎処《こうしょ》した。間もなく桑※[#「栩のつくり+中」、332−8]伏誅しその徒皆|棄市《きし》された時二喜のみ免れた。探索厳しいから村人多く疑う。由って老婆連を集め見せるに全く無性人と判った。王二喜ここに至って馬生を徳とし、その為《な》すままに身を任せて一生を終り、死して馬氏の墓側に葬られた。支那では余り希有《けう》な事でないらしく、おどけ半分に異史氏が評して馬万宝善く人を用ゆる者というべし。児童|蟹《かに》を面白がるが鉗《はさみ》が畏《おそ》ろしい。因って鉗を断ちて飼う。万宝もこんな美人をそのまま置いては留守に家を乱さるるからこれを宮して謀反の道を断って思うままに翫《もてあそ》んだのだ。ああいやしくもこの意を得ば以て天下を治むるも可なりといった(「鳥を食うて王に成った話」参照)。桑※[#「栩のつくり+中」、332−15]が事は『明史』にも具載され大騒動だったのだ。
それよりも古く宋の時男色を営業する者多く、政和中法を立て、男子を捕え娼と為すを告げれば賞銭五十貫、罪人は杖一百と定めた。南渡の後呉俗もっとも盛んで、皆脂粉を傅《つ》け盛んに粧飾し、針縫を善くし、呼んでいう皆婦人のごとし。その首たる者を、師巫行頭と号す。およそ官府に不男の訟あらばすなわち呼んでこれを験せしむ。風俗を敗壊するこれより甚だしきはなし(『※[#「こざとへん+亥」、333−4]余叢考』四二)。また古く『漢武故事』に、初め武帝太子たりし時、伯母大長公主その女陳阿嬌を指《さ》し好否を問う。帝曰く、もし阿嬌を得ばまさに金屋《きんおく》を以てこれを貯うべしと。公主大いに喜びすなわち帝に配す。これを陳皇后という。後《のち》皇后寵ついに衰え驕恣《きょうし》ますます甚だし、女巫楚服なる者自ら言う、術あり能《よ》く上の意を回《かえ》らしむと。昼夜祭祀し薬を合せて服せしむ。巫男子の衣を著け冠※[#「巾+責」、第3水準1−84−11]《かんさく》帯素し皇后と寝居し相愛夫婦のごとし、上聞いて侍御を究治す。巫后と妖蠱《ようこ》呪詛《じゅそ》し女にして男淫するを以て皆|辜《つみ》に伏す、皇后を廃して長安宮に置くと。『漢書』にこの連坐で三百余人誅せらるという。この后の曾祖父陳嬰は無類に謹厚な長者で秦の世乱れた時推して王とされたが、その母我汝が家に嫁し来ってより、いまだかつて汝が先祖に貴き者ありと聞かず、今大名を得ば不祥だ。宜しく他人に属すべし。事成らば封侯を得、事敗れたら逃るるにやすからんと言う。由って衆に勧めて代々名将だからとて項梁《こうりょう》に属し、後《のち》漢に帰して堂邑侯たり。かかる有徳の人の後にこんな奇態な皇后が出来、あろう事か妖巫といわゆるお姿夫婦(『傾城難波土産』四の二)の語らいから帝室の威厳を損ずる大騒ぎを起したは何たる事ぞ。『史記』外戚世家《がいせきせいか》一九に、この后子なき故、その母が武帝を立てた偉功あるにかかわらず廃せられ、子を求めて九千万銭を医に与えたが、ついに子なしとあれば、楚服はもとよりこの后も多少半男女がかった変り物だったらしい。
インド、エジプト等の諸国に至っては、バートンの『千一夜譚』や仏教の律蔵、ラメーレス訳『愛天経』等を見て一斑を覗《うかが》わるるごとく、外貌天性とも男女いずれと別らぬ者充満し、対角線を引いたごとく入り乱れて行なうから奇々怪々の異事最も多い。したがって艱難《かんなん》は発明の母ともいうが、男装女子や女装男子を見別つ法も随分あったといわせるほど備え居る。たとえば男女いずれとも別らぬ者を見れば、何気なき体《てい》で遊戯に誘い入れ、普通本邦婦人が洗濯する体に蹲《うずく》まらしめ、急に球を抛《な》げると両手で受け留むる刹那《せつな》、股《また》を開けば女子、股を狭《せば》むれば男子とは恐れ入ったろう。また予は実験しないが、一八六七年パリ版、ゴダールの『エジプトおよびパレスチナ』一四一頁に記したは、エジプトで女奴を買う前、身体検査にその女の身内熱きか否かを識《し》る法あり、大盥《おおだらい》に水の冷たいのを入れてその中に坐せしむると吸い込む故、それだけ水面が降る。降る度の高いほど精力強しと知ると。惟《おも》うに近頃諸国で結婚問題やかましく、優生学者等同音に男女身体検査を厳重に行うた後、相応《ふさわ》しい同士を婚せしむべきを主張するが、体|健《すこや》かにして子なきも多ければ、要は第一に男女精力の強弱を検すべきで、東洋に古く行われた指印から近時大奏効し居る指紋法が発達したごとく(この事に関して『ネーチュール』に出した拙文はガルトン始め諸国の学者に毎度引かれ居る)、この吸水力が果して精力を表わすか否を試験した上、いよいよエジプト人のいう通りならば、それより敷衍《ふえん》して婦女精力計という精細な器械を作り出さん事を国家の大事として述べて置く。まだまだ多年の薀蓄《うんちく》、こんな創思はあり余って居るが、愚者道を聞いて大いにこれを笑う世の中、遺憾ながら筆を無駄使いせぬようこれ位でやめる。とにかく今日半開と呼ばるる回教諸国などなかなかえらい発明も多かり、能くその法を採用したら、上る箱根のお関所でちょと捲《まく》るに及ばず、毬《まり》一つ投げ受けしただけで、男女を識別し得たはずだ。
支那の検屍法などにも西人の想いも付かなんだ事多く、予在欧の昔すら『洗冤録』などを訳させて験し居る者があった。わが邦でも笑うて過さずにその当否を試験せば、近日|聒《やか》ましい父子血合せの法くらいは西人に先鞭を付けられずに済むだろう。たとえば万治二年中川喜雲著『私可多咄《しかたはなし》』五に『棠陰比事』を引いて、呉の張挙|訟《うった》えを聞くに、夫を殺し家を焼き、妾夫火事で焼け死んだという妻の言を夫の親類受け付けず。挙豕を二疋取り寄せ、一を殺し他は生きながら薪を積んで焼いて見れば、殺して焼いたは口中に灰なく、生きながら焼いたのは、灰、口を埋めいた。さて、かの夫の口中を見れば少しも灰なかったから、夫を殺して後《のち》火を掛けたと、豕と比較して見せたので女争わず服罪したとあるごときも、支那人の気の付けようは格別と思われる。応挙が画くごとにその物に経験厚い人の説を聞いたはもっともだ。
橋本経亮の『橘窓自語《きっそうじご》』に「長常という彫物師は類なき上手なり、円山主水応挙も絵の上手なりしが、智恩院宮諸太夫樫田|阿波守《あわのかみ》という人長常に小柄《こづか》を彫りてよ、応挙の下絵を書かせんと誂《あつら》えければ長常|諾《うべな》いたり。因って阿波守応挙に云々といいければ速やかに下絵を画いて送りしかば、阿波守長常の方に持ち至りて下絵を与えければ、長常この下絵にては得彫らじといいたり。いかなればと阿波守問いければ、これはわれに彫らさんと告げて応挙に下絵を画かせたまいしとみえて、応挙は画の上手なればわが彫るたがね癖を書きたり、常に悪きた
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