十二支考
猪に関する民俗と伝説
南方熊楠
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)蕨《わらび》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この語|何時《いつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「轂」の「車」に代えて「豬のへん」、282−3]
−−
1
十二月(大正十一年)初め博文館から「イノシシノゲンコハヤクオクレ」と電信あり、何の事か判らず左思右考するに、上総で蕨《わらび》を念じ、奥州では野猪の歌を唱えて蝮蛇《まむし》の害を防ぐとか。しかる上は野猪と蕨の縁なきにあらず。蜀山人《しょくさんじん》の狂歌に「さ蕨が握り拳《こぶし》をふり上げて山の横つら春風ぞふく」、支那にも蕨の異名を『広東《カントン》新語』に拳菜、『訓蒙字会』に拳頭菜など挙げいるから、これは一番野猪と蕨を題して句でも作れという事だろうと言うと、妻が横合《よこあい》からちょっとその電信を読みおわり、これはそんなむつかしい事でない。来年は亥《い》の歳だから、例に依ってイノシシの話の原稿を早く纏《まと》めて送れという訳と解いたので、初めて気が付いてこの篇に取り掛かった。
今村鞆君の『朝鮮風俗集』二〇八頁に「亥は日本ではイノシシであるが、支那でも朝鮮でも猪の字は豕《ぶた》の事で、イノシシは山猪と書かねば通用しない。すなわち朝鮮では今年はブタの年である。ブタの年などというと余りありがたくないが、朝鮮ではブタには日本人よりよほど敬意を表して居る。この日(正月初めの亥の日)商売初めて市を開く云々」。漢土最古の字書といわるる『爾雅《じが》』に、豕《い》の子《こ》は猪とあり。『本草綱目』にも豕の子を猪といい、豚といい、※[#「轂」の「車」に代えて「豬のへん」、282−3]というと出るから、豕和訓イ、俗名ブタの子が猪、和訓イノコだ。しかるに和漢とも後には老いたる豕も本《もと》は子であったから猪、イノコと唱えたので、家に畜《か》う家猪に対して、野生の猪を野猪また山猪、和名クサイイキ、俗称イノシシという。外国と等しく本邦にも野猪を畜って家猪に仕上げたは、遺物上その証あり。また猪飼部《いかいべ》の称や赤猪子《あかいご》てふ人名などありてこれを証す(明治三十九年版、中沢・八木二氏共著『日本考古学』三〇四頁)。されど家猪を飼う事早く絶え果てたから正にイと名づくるものがなくなり、専らイノシシすなわち野猪をイと呼び、野猪の子をイノコと心得るに至った。したがって近代普通に亥歳の獣は野猪と心得、さてこそ右様の電文も発せられたのだ。
本篇を読む方々に断わり置くは、猪の事を話すに一々家猪、野猪を別つはくだくだしいが、特に野猪と書いた場合はイノシシに限り、単に猪と書いたのは家猪野猪を並称し、もしくはいずれとも分らぬを原文のまま採ったのである。豕と書いたのは家猪の事、豚はもと豕の子だが世俗のままにこれも家猪に適用して置く。
近世豚の字を専らブタと訓《よ》む。この語|何時《いつ》始まったかを知らぬ。『古今図書集成』の辺裔《へんえい》三十九巻、日本部彙考七に、明朝の日本訳語を挙げた内に、羊を羊其《ようき》、猪を豕々《しし》として居る。その頃支那人が家猪を持ち来ったのを、日本人が野猪イノシシの略語でシシと呼び、山羊をヤギと呼んだのだ。古くは野牛と書き居る。綿羊のみをヒツジと心得て、山羊を牛の類と心得たものか。『大和本草《やまとほんぞう》』十六にこれ羊の別種で牛と形と相類せずと弁じ居る。やや新しそうに思われたヤギなる称が、明の時代既に日本にあったと知ってより、ブタという名もその頃あった証拠はないかと血眼《ちまなこ》になって捜索すると、本願空しからずとうとう見出しました。それは『奥羽永慶軍記』二に最上義光《もがみよしみつ》、延沢能登守信景の勇力を試みんとて大力の士七人を選出す。「一番に裸《はだか》武太之助、この者鮭登典膳与力にてその丈七尺なり、今東国に具足屋なし、上方には通路絶えぬ、武具調うる事なかれば、戦場に出づるに素肌に腰指《こしざし》して歩《かち》にて出陣すれども、いつも真先に駈けて敵を崩さずという事なし、本名は高橋弾之助英国といいけるが、素肌にて働く故人皆裸とはいうなり、余り肥え脹《ふく》れし故|豕《ぶた》という獣に似たりとて豕之助と名付けしを、義光文字を改めて、武太之助と戯れける」。これがヤギと等しく、ブタという畜生の名が明《みん》の代既に日本にあった証拠で、義光は飯田忠彦の『野史』一六五に拠れば、大正十二年より三百九年前に当る慶長十九年正月六十九歳で死んだ。明の神宗の万暦四十二年に当る。体が太った者をブタと名付けたのを見ると、肥え脹れたのを形容してブタブタという語も当時既にあったらしく思わる。橘南谿《たちばななんけい》の『西遊記《さいゆうき》』五に広島の町に家猪多し、形牛の小さきがごとく、肥え膨れて色黒く、毛|禿《は》げて不束《ふつつか》なるものなり、京などに犬のあるごとく、家々町々の軒下に多し、他国にては珍しき物なり、長崎にもあれども少なし、これはかの地食物の用にする故に多からずと覚ゆ云々と記し、『重訂本草綱目啓蒙』四六には、長崎には異邦の人多く来る故に豕を畜《か》い置いて売るという。東都には畜う者多し。京には稀なりという。かくたまたま豚を多く飼う所もあったけれど、徳川氏の代を通じてわが邦に普遍せなんだ物で、明治四年頃和歌山市にただ一ヶ所豚飼う屋敷あったを、幼少の吾輩毎日見に往ったほどである。
猪に関する伝説を書くに当り、この篇の発端に因《ちな》んで野猪と蝮蛇の話を述べよう。けだし野猪に限らず猪の類は、皆蛇を食う(アリストテレスの『動物史』九巻二章。プリニウスの『博物志』九巻一一五章)。ところが日本では家猪が久しく中絶と来たから、専ら野猪のみ蛇を制するよう心得たのだ。『集古』庚申五号に、故羽柴古番氏が越後国南蒲原郡下保内村で十歳になる少女に聞いた歌を出した。「まだらむしや、わがゆくさきへ、ゐたならば、山たち姫に、知らせ申さん」右、家を出る時|鴫居《しきい》をまたがぬ前に三遍唱うれば蛇に逢わぬ。もし蛇に食い付かれたる時は、ボトロ(蕨の茎葉)にて傷口を撫でながら右の歌を唱うれば、蛇毒消散して害をなさずと。まだら虫とは蛇の事、山だち姫とは、ボトロの事なりというとある。大正六年二月の『太陽』に予この事について少しく述べたが、その後|識《し》り得る事どもを併《あわ》せ述べよう。『嬉遊笑覧』に『萩原随筆』に蛇の怖るる歌とて「あくまたち、我たつ道に横たへば、山なし姫にありと伝へん」というを載せたり。こは北沢村の北見伊右衛門が伝えの歌なるべし。その歌は「この路に錦斑《にしきまだら》の虫あらば、山立ち姫に告げて取らせん」。『四神地名録』多摩郡喜多見村条下に「この村に蛇|除《よ》け伊右衛門とて、毒蛇に食われし時に呪いをする百姓あり、この辺土人のいえるには、蛇多き草中に入るには伊右衛門伊右衛門と唱えて入らば毒蛇に食われずという、守りも出す。蛇多き所は三里も五里も守りを受けに来るとの事なり、奇というべしといえり、さてかの歌は、その守りなるべし、あくまたちは赤斑《あかまだら》なるべく、山なし姫は山立ち姫なるべし、野猪をいうとなん、野猪は蛇を好んで食う、殊に蝮を好む由なり」とある。
予在米の頃、ペンシルヴァニア州の何処《どこ》かに、蛇多きを平らげんため欧州から野猪を多く移し放った。右の歌を解するに、強《あなが》ちにアクマタチを赤斑、山なしを山立と説くを要せず。蛇を悪魔とするは耶蘇《ヤソ》教説その他例多し。山梨の事は「猴の民俗と伝説」に載せて置いた。野猪山梨の実を好んで山梨姫と呼ばれたものか、更に分らぬが歌の意は、山梨のなしに対してありすなわち蛇がここにありと告げて食わせるぞと蛇を脅かしたので、梨をアリノミともいうに因る。一八九〇年八月二十八日の『ユニヴァシチー・コレスポンデント』に仏人カルメットの蛇毒試験の報告出で、その中に家猪は蛇咬の毒を感ぜぬが、その血を人間に注射しても蛇毒予防の効なしとあったから見れば、家猪の根原種たる野猪は無論毒蛇に平左衛門であろう。さて、羽柴氏が越後で聞いた歌は、まずは『萩原随筆』のと『四神地名録』のとを折中したようだ。蕨の茎葉で蝮に咬まれた創口《きずぐち》を撫でてかの歌を誦《じゅ》すと越後でいう由なるが、陸中の俚伝を佐々木喜善氏が筆したのには、蛇に逢いて蛇がにげぬ時「天竺の茅萱《ちがや》畑に昼寝して、蕨の恩を忘れたか、あぶらうんけんそわか」と三遍称うべし。かくすれば蛇は奇妙に逃げ去るとなりと(『人類学雑誌』第三二巻十号三一三頁)。これだけでは何の訳か知れねど、内田邦彦氏の『南総俚俗』一一〇頁に「ある時、蝮病でシの根(茅《かや》の根の事なれどここはその鋭き幼芽の事)の上に倒れ伏したれど、疲弊せるため動く能わざりしを、地中の蕨が憐れに思い、柔らかな手もて蛇の体を押し上げて、シの根の苦痛より免かれしめたり、爾後山に入る者は、奥山の姫まむし、蕨の御恩を忘れたかと唱うればその害を免かる」と載せたるを見て、始めて筋道が分った。これには蝮を南総で女性に見立て姫まむしというので、全く越後で蕨の茎葉を山だち姫というのと違う。熊楠いう、茅の芽は鋭くて人の足に立ち傷《いた》める。『本草綱目』一三に茅芽を俗に茅針というと出るもこれに因るのだ。この蝮も倒れた時茅の幼芽が立って傷つけたから、山にあって人や畜生の身に立ち困らせる、刺が立つの意で茅を山立ち姫と呼び、人を蝮が咬まば茅に告げて蛇の身に立たしむるぞと脅した歌の心でなかろうか。神代に萱野《かやの》姫など茅を神とした例もあれば、もと茅を山立姫というに、それより茅中に住んで茅同然に蛇が怖るる野猪をも山立姫といったと考える。佐藤成裕の『中陵漫録』六に、『本草綱目』に頭斑身赤文斑という、また蝮蛇錦文とあるに因って蝮蛇を錦まだらという、山たち姫といわば鹿だ。『本草』に鹿を斑竜と異名したから、山竜姫というが、鹿は九草を食して虫を食わぬ。好んで蝮蛇を食うものは野猪だから山竜姫は野猪であろうといったが、なぜそう名づけたかを解いていない。
ついでにいう。津村正恭の『譚海』一五に、蝮蛇に螫《さ》されたるには年始に門松に付けたる串柿を噛み砕いて付けてよしと出づ。田辺近村で今も蝮に咬まれた所へ柿また柿の渋汁を塗る。宮武粛門氏説に、讃岐国高松で玄猪《げんちょ》の夜藁で円い二重の輪を作り、五色の幣を挿し込み、大人子供集りそれを以て町内を搗《つ》き廻る。その時唱う歌の一つに「猪《い》の子神さん毎年ござれ、祝うて上げます御所柿《ごしょがき》を、面白や云々」、『華実年浪草《かじつとしなみぐさ》』十に、ある説に亥子餅《いのこもち》七種の粉を合せて作る。大豆、小豆、大角豆《ささげ》、胡麻、栗、柿、あめなりとあって、柿も七種の粉の仲間入りをしているが、件《くだん》の歌に特に柿を上げますというのは、猪は格段に柿を好むにや。果してしからば偶合かも知れないが、猪と柿と両《ふた》つながら蛇毒を制すと信ぜられたは面白い。
『大和本草』附録下に、野猪の脂は、婦人をして乳多からしめ、疥癬を治す。プリニウスの『博物志』二八巻三七章にも豕脂が疥癬に効あるを述べ、また新鮮なる豕の脂を陰膣に込んで置くと、子宮中の児に滋養分を給し流産を禦《ふせ》ぐと載す。乳を多くしたり流産を防ぐなど婦女に大効あるらしい。グベルナチスの『動物譚原』にいわく、豕はもっとも好婬な動物の一だからピタゴラスは多婬家は豕に生まれ換わるといい、婬蕩人を豕と呼ぶ。ヴァロ説に、昔エトルリアの王や貴人は新婚に豕を牲した。それから精力強い女を豕と呼ぶと。これを読んで、さほど精力強い豕を食ったら定めて精力強くなる理窟で、豕をシシと呼んだ事は上に述べた通り、それからむやみに子を孕《はら》んで困るをシシ食うた報いというたに相違ないと、独りよがりをやらしていたところ、『嬉遊笑覧』を読んで自説
次へ
全9ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング