の大間違いたるを悟った。その巻の十上にいわく、犬は鷹にも飼い人も食いしなり、『徒然草』に雅房大納言鷹に飼わんとて犬の足を切りたりと讒言《ざんげん》したる物語あり、『文談抄』に鷹の餌に鳥のなき時は犬を飼うなり。少し飼いて余肉を損ぜさせじとて生きながら犬の肉をそぐなり、後世も専らこれを聞きたりと見えて、『似我蜂《じがばち》物語』に江戸の近所の在郷へ公より鷹の餌に入るとて、犬を郷中へささ(課)れけるという物語あり。『続|山井《やまのい》』、
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鷹の峯のつち餌になるな犬桜    宗房
しゝ食うたむく犬は鷹の餌食《えじき》かな  勝興
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と。これでしし食うた報いの意が解けた。これに似た事、『中陵漫録』五に、唐人猪の尻の肉を切って食し、また本のごとく肉生ずれどもその肉硬くなりて宜《よろ》しからずとある。
 いずれも無残な仕方だが、まだ酷《ひど》いのはアビシニア人が牛を生きながら食う法で、ブルースはかの国の屠者を暗殺者と呼んだ。モーセの制法を守る言い訳に、五、六滴を地に落した後《のち》屠者二人または三人は上牛の脊の上の上脊髓の両傍の皮を深く切り、肉と皮の間に指を入れて肋骨へ掛けて尻まで剥《は》ぐ。さて骨に掛けず流血も少なく尻の肉を四角な片《きれ》に刻み去る。牛大いに鳴く時客人一同座に就く。牛は戸辺にあって流血少なし。屠者骨より肉を切り離すは腿や大動脈のある処を避く。ついに腿の肉を切り取るに及び牛夥しく血を出して死す。死んだ後の肉は硬くて旨からずとするとあって、つまりアビシニア人は生きた牛から切り取ってその肉を賞翫するのだ(一八五三年版、パーキンスの『アビシニア住記』一巻三七二頁以下)。ただしアビシニア人を残酷極まると記した英国人も、舌を満足させるために今も随分酷い屠殺|割烹《かっぽう》法を行う者で、その総覧ともいうべき目録を三十年ほど前『ネーチュール』へ出した人があったが、予ことごとく忘れてしまい、鰕《えび》を鍋の中で泳がせながら煮る一項だけ覚え居る。というと日本でも生きた泥鰌《どじょう》を豆腐と一所に煮てその豆腐に穿《うが》ち入りて死したのを賞味する人もあるから、物に大小の差こそあれ無残な点に甲乙はない。故に君子は庖厨《ほうちゅう》を遠ざくで、下女が何を触れた手で調《ととの》えたか知らぬ物を旨がるところが知らぬが仏じゃ。
 一七一五年版、ガスターの『ルマニア鳥獣譚』にいわく、古いヘブリウ口碑を集めた『ミドラシュ・アブクヒル』に次の譚あり。人祖ノアが葡萄を植えた処へ天魔来り手伝おうといい、ノア承諾した。天魔まず山羊を殺してその血を葡萄の根に澆《そそ》ぎ、次に獅子、最後に豕の血を澆いだ。それから人チョビッと酒を飲むと面白くなって跳ね舞わる事山羊児に異ならず。追々に飲むに従って熱くなって吼《ほ》ゆる事獅子に同じ。飲んで飲みまくった揚句《あげく》は、ついに泥中に転《ころ》げ廻ってその穢を知らず、宛然《さながら》猪の所作をする。葡萄の根に血を澆いだ順序通りにかく振れ舞うのだと。一説に、ジオニシオス尊者ギリシアに長旅し疲れて石上に坐り、見ればその足の辺《あたり》に美しい草が一本芽を出しいた。採って持ち行くに日熱くて枯れそうだから、鳥の小骨を拾いその中に入れ持ち行くと、尊者の手の徳に依ってその草速やかに長じて骨の両傍からさし出でた。これを枯らしてはならぬと獅子の厚い骨を拾い、草を入れた鳥の小骨をその中に入れ、草なおも生長して獅子の骨に余るから、一層厚い驢《ろ》の骨を見付け他の二骨を重ねてその草を入れ、志したナキシアの地に至って見ると、草の根が三つの骨に巻き付いて離れず、これを離せば草を損ずる故そのまま植えた。その草ますます長じて葡萄となり、その実より尊者が初めて酒を造り諸人に与えた。ところが不思議な事は、飲む者初めは小鳥のごとく面白く唄い、次に獅子のように猛《たけ》くなり、その上飲むと驢の体《てい》たらくに馬鹿となったという。驢も豕同様、獣中最も愚とせられた物だ。
『王子法益壊目因縁経』に、高声|愧《は》ずるなく愛念するところ多く、是非を分たぬ人は驢の生まれ変りで、身短く毛長く多く食い睡眠し、浄処を喜ばざるは猪中より生まれ変るといい、『根本説一切有部毘奈耶』三四に、仏諸比丘に勅して、寺門の屋下に生死論を画かしむるに、猪形を作って、愚痴多きを表すとある。『仏教大辞彙』巻一の一三三八頁にその図二ある。猪が浄処を喜ばぬとは、好んで汚泥濁水中に居るからで、陶穀の『清異録』に小便する器を夜瀦《やちょ》という、『唐人文集』に見ゆと記す。溜り水を瀦というも豕が汚水を好むからだろう。蘇東坡《そとうば》仏印と飲んで一令を行うを要す。一庭に四物あり、あるいは潔《きよ》くあるいはきたなく韻を差《たが》うを得ず。東坡曰く、美妓房、象牙床、玻※[#「王+黎」、第3水準1−88−35]盞《はりさん》、百合香と。仏印曰く、推瀦水、※[#「やまいだれ+慊のつくり」、291−2]瘡腿、婦人陰、※[#「髟/胡」、291−3]子嘴と(『続開巻一笑』一)。ブラントームの『レー・ダム・ガラント』第二に、ある紳士が美人睡中露身を見て一生忘れず、居常讃嘆してわれ毎《つね》にこれを観想するのほかに望みなしといったとあるは、仏印の所想とすこぶる違う。さてその紳士その美人を娶れば娶り得るはずだったが、利に走る世の習い、その美人よりも富んでさほどの標緻《きりょう》を持たぬ女を妻《めと》ったとは、歎息のほかなし。
 荘子は亀と同じく尾を泥中に曳《ひ》かんといったが、猪が多く食って泥中に眠るも気楽千万で、バウルスは豕を愛する甚だしく、上帝が造った物の中最も幸福なものは豕だといった。殊に太った豕ありと聞かば二十マイルを遠しとせず見に往った。生きた豕の愛が※[#「酉+奄」、第3水準1−92−87]豕肉にまで及んで、宴会に趣くごとに自製の※[#「酉+奄」、第3水準1−92−87]豕肉をポケットに入れ往き、クックに頼んで特に調味せしめた(サウゼイの『随得手録』四輯)。自分が愛する物を食うは愛の意に戻《もと》るようだが、愛極まる余りその物を不断身を離さずに伴うには、食うて自分の体内に入れその精分を我身に吸収し置くに越した事がない。猫が人に子を取らるるを患《うれ》いてその子を啖《く》い(ロメーンズの『動物の智慧』一四章)、諸方の土蕃が親の尸《しかばね》を食い、メキシコ人等が神に像《かたど》った餅を拝んだ後食うたなども同義である。わが邦の亥の子餅ももと猪を農の神として崇めた余風で、猪の形した餅を拝んだ後食ったらしい。この事は後に論じよう。[#地から2字上げ](大正十二年一月、『太陽』二九ノ一)

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 ロメーンズの『動物の智慧』十一章に挙げた諸例を見ると、豕を阿房《あほ》の象徴とするなどは以てのほかと見える。その略にいわく、豕の智慧は啖肉獣(犬猫等)のもっとも賢いものに比べると少し劣るのみなるは、学んだ豕とて種々の巧技を演ずるを見ても首肯し得る。豕がなかなか旨く門戸の鎖《とざし》を開くは、ただ猫のみこれに比肩し得る。ツーマー兄弟なる者豕を教えて二週間の後|禽《とり》の在所を報ぜしめ、それより数週後に獲物を拾い来らしめた。その豕の鼻よく利《き》き、雉《きじ》、熟兎等をよく見付けたが野兎には利かなんだと。またいわく、野猪は群を成して共同に防禦する。ある人ヴェルモントの曠野で野猪の大群至って不安の様子なるを見るに、毎猪頭を外に向けて円を形成し、円の中心に猪子を置く。その時一つの狼種々に謀って、一猪を捉《とら》んと力《つと》めいた。その人その場を去って還り、往って見れば、猪群既に散じて狼は腹|割《さ》かれて死しいた。シュマルダが覩《み》た家猪の一群は、二狼に遇いてたちまち※[#「木+厥」、第3水準1−86−15]状《くつわじょう》の陣を作り鬣《たてがみ》を立て呻《うめ》いて静かに狼に近づく。一狼は遁れたが、今一つの狼は樹の幹に飛び上った。猪群来って中を取り囲むと、狼、群を飛び越ゆる。その時遅くかの時速く、たちまち猪に落され仕留められたと、これは欧州の家猪の高名だが、猪の類多くは一致共同して敵に勝つと見える。
 南米にベッカリーという獣二種ありて、後足に三趾を具うるので前後足とも四趾ある東半球の猪属と異なり、また猪と違うて尾が外へ見《あら》われず、鹿や羊に近くその胃が複雑し居る(一九二〇年版『剣橋《ケンブリッジ》動物学』十巻二七九頁)。腰上に臍《へそ》に似た特異の腺ある故ジコチレス(二凹の義)の学名が附けられ、須川賢久氏の『具氏博物学』などには臍猪の訳名を用いた。その上牙は直ぐに下に向い出で、猪属の上牙が外や上に曲り出るに異なるなり(『大英百科全書』十一板二十一巻三二頁)。南米の土人これを飼いて豕とし温和なること羊のごとくなる。身長三フィートばかりの小獣でその牙短小といえども至って尖《とが》り、かつ両刃あり怖ろしい傷を付ける。五十|乃至《ないし》数百匹群を成して夜行し、昼は木洞中に退いて押し合いおり、最後に入ったものが番兵の役を勤む。行く時は堅陣を作り、牡まず行き牝は子を伴れて随う。敵に遇わば共同して突き当る。その猛勢に猟士また虎(ジャグアル)も辟易して木に上りこれを避くる由(フンボルトの『旅行自談』ボーンス文庫本二巻二六九頁、ウッドの『動物画譜』巻一)。
『淵鑑類函』四三六に服虔曰く、猪性触れ突く、人、故に猪突|※[#「豬のへん+希」、第3水準1−92−23]勇《きゆう》というと。いわゆるイノシシ武者で、※[#「豬のへん+希」、第3水準1−92−23]は南楚地方で猪を呼ぶ名だ。『※[#「竹かんむり/甫/皿」、第3水準1−89−74]※[#「竹かんむり/艮/皿」、第4水準2−83−69]《ほき》内伝』二にいわく、亥は猪なり云々。この日城攻め合戦剛猛の事に吉《よ》し、惣《そう》じて万事大吉なりとあるは、その猪突の勇に因んだものだ。しかるに『暦林問答』には亥日柱を立てず(書にいう、災火起るなり)、嫁娶せず、移徒せず、遠行せず、凶事を成すとあるは何故と解き得ぬ。日本でも野猪の勇者あるをいうが、共同の力強きを言わぬは、日本の野猪にはその稟賦《ひんぷ》を欠くか、または狩り取る事夥しくて共同しょうほど数が多からぬか、予は弁じ得ぬ。インドの野猪は日本や欧州のと別種だが、やはり共同して勇戦すると見え、カウル英訳『仏本生譚《ジャータカ》』巻二と四に、大工が拾い育てた野猪の子が成長して野に還り、野猪どもに共同勇戦の強力なるを説いて教練し、猛虎を殺し、またその虎をして毎《つね》に野猪を取り来らしめて、分ち食うた仙人をも害した物語を出して居る。
 慶長頃本邦に家猪があった事は既述した通りだが、更に寺石正路君の『南国遺事』九一頁を見ると、慶長元年九月二十八日土佐国浦戸港にマニラよりメキシコに通う商船漂着し、修理おわって帰国に際し米五百石、豚百頭、鶏千疋を望みしに対し、豊太閤、増田長盛をして米千石、豚二百頭、鶏二千疋等を賜わらしめ、船人大悦びで帰国したとある。この豚二百頭は無論日本で飼いいたものに相違ない。それから『長崎虫眼鏡』下に、元禄五年の春より唐人オランダのほかは豕鶏等食する事を停めらるとあれば、それ以前開港地では邦人も外客に倣《なろ》うて豕を食ったのだ。また足利氏の世に成った『簾中抄』に孕女の忌むべき物を列ねた中に、鯉と野猪あり。この二物乳多からしむと『本草』に見ゆるにこれを忌んだは、宗教上の制禁でもあろうか。
 また、既に書いた通り猪類皆好んで蛇を食う。それについて珍譚がある。定家卿の『明月記』建仁二年五月四日の条に「〈近日しきりに神泉苑に幸《みゆき》す、その中|※[#「彑/(比<矢)」、294−15]猟《ていりょう》致さるるの間、生ける猪を取るなり、仍《よ》りて池苑を掘り多くの蛇を食す、年々池辺の蛇の棲を荒らすなり、今かくのごとし、神竜の心如何、もっとも恐るべきものか、俗に呼びていわく、この事に依り炎旱《えんかん》云々〉」。天長元年旱災の際、弘法大師天竺無熱池の善如竜王
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