をこの池に勧請《かんじょう》して、三日間あまねく天下に雨ふる。その時大師、もしこの竜王他界に移らば、池浅く水減じて恒《つね》に旱《ひでり》し常に疫せんといった由(『大師御行状集記』六九―七一)。しかるに、当時後鳥羽上皇講武のためしばしば神泉苑に幸し、猪狩りを行うとて野猪を野飼いにされたので、年々池辺の蛇を食いその棲処《すみか》を荒らす故、蛇の大親分たる善如竜王が憤って雨を降らさぬと風評したのだ。西暦千七百年頃オランダ人ボスマン筆『ギニヤ記』に、フィダーの住民は蛇を神とす。一六九七年豕一疋神の肉を食いたいと謀反《むほん》を起し、蛇に咬まれた後|讎《あだうち》がてら蛇を食いおわるを、側に在合《いあわ》せた黒人が制し得なんだ。祠官|蜂起《ほうき》して王に訴え、国中の豕を全滅せよと請うたのでその通りの勅令が出た。そこで黒人数千、刀を抜き棒を振って豕を鏖《みなごろ》しにせんといきまき、豕の飼い主また武装して豕の無罪を主張した。黒人|遮二無二《しゃにむに》豕無数を殺した後、神の怒り最早安まっただろとて豕を赦免の令が出た。その後予フィダーに著いた時豕の値格外高かったので、よほどの多数が殺されたと知ったと(ピンカートンの『海陸紀行全集』一八一四年版、十六巻、四九九頁)。
琉球人の伝説に、毒蛇ハブと蜈蚣《むかで》は敵でハブ到底蜈蚣にかなわない。因って次の呪言を唱えるとハブ必ず逃げ去る。その呪にいわく、ヨーアヤマダラマダラ(以下訳語)汝は(普通の)父母の子か、俺は蜈蚣の子ぞ、我行く先に這い居るならば、青笞で打ち懲らすぞ、出ろ出ろ(佐喜真興英氏の『南島説話』二八頁)。前に記した「この路に錦斑の虫あらば云々」という歌によく似おり、茅や野猪の代りにンカジ(ムカデ)があるだけ異《ちが》って居る。蛇はあっちでもマダラというらしい。
それからアリストテレスの『動物史』、八巻二八章に、カリア等に産する蠍《さそり》はよく牝豕を殺す。牝豕は他の毒虫に螫《さ》さるるも平気だ。殊に黒い牝豕は蠍に殺されやすい。また蠍害を受けた豕は、水辺へ近づくほど速やかに死ぬとある。一昨年(大正十年)九月大連市の大賀一郎氏から、北満州産の蠍を四疋贈られ愛養中二疋は死んだが、二疋は現に生きおり、果して豕を螫し殺すか試《ため》さんと心懸くるも、狭い田舎の哀しさ豕が一疋もないから志を遂げ得ぬ。予がかかる危険な物を愛養し続くる訳は、蠍の腹に脚の変態で櫛《くし》と名づくる物一対あり。その作用について欧人の説が臆測に過ぎずと察せられたからで、種々生品を観察して果して臆断と判った。それと同時に先人未発の珍事を発見したというは、皆人の知る通り、猫の四足を持って仰向けに釣り下げて高い庭から落すと、たちまち宙返りをして必ず四足を地上に立つる。一八九四年刊行『ネーチュール』五一巻八〇頁に出たマレー氏の写真でもよく判る。しかるに予蠍を小さい壺に入れ細かい金網を口に張って蓋とし置くと、蠍先生追い追い壺の内壁を這い上って件《くだん》の網の表を這い、予をして遺憾なくかの櫛の作用を視察せしむ。かくする内、予ふと指で網面を弾《はじ》いて蠍を落すごとに、蠍はたちまち宙返りして腹を下にして落ち着く。この蠍、頭の端尖から尾の先まで四五―五七ミリメートルで、金網の裏面より落ち著く砂上まで四〇―五〇ミリメートル。されば自分の身長よりも短い間でかく宙返りをやらかすは、奇絶だとだけ述べ置く。むつかしい研究故詳しくは言えない。
『淵鑑類函』四三六に、『孔帳』に曰く扶南《ふなん》人喜んで猪を闘わすとある。『甲子夜話』一七に家豕の闘戦を記して、畜中の沈勇なるものというべきかと評す。『想山著聞奇集』五に、野猪|熾《さか》り出す時は牝一疋に牡三、四十疋も付き纏《まと》うて噛み合い、互いに血を流し朱になっても平気で群れ歩く。この時は色情に目暮れて人をも一向恐れず、甚だ不敵になり居ると載す。『中阿含経』一六にいわく、大猪、五百猪の王となって嶮難道を行く、道中で虎に逢い考えたは、虎と闘わば必ず殺さるべし。もし畏《おそ》れ走らば諸の猪が我を侮らん。何とかこの難を脱したいと念《おも》うて虎に語る。汝我と闘わんと欲せば共に闘うべし。しからずんば我に道を借して過ぎしめよと。虎曰く共に闘うべし、汝に道を借さずと。猪また語るらく、虎汝暫く待て、我れ我が祖父伝来の鎧《よろい》を著《つ》け来って戦うべしという。虎心中に、猪は我敵にあらず、祖父の鎧を著《き》たって何ほどの事かあらんと惟《おも》い、勝手にしろというと、猪還って便所に至り身を糞中に転《ころ》がし、眼まで塗り付け、虎に向って汝闘わんとならば闘うべし。しからずば我に道を借せという。虎これを見て我常に牙を惜しんで雑小虫をすら食わず。いわんやこの臭猪に近付くべけんやと、すなわち猪に語って、我汝に道を借す、汝と闘わじという。猪過ぐるを得て虎を顧みて曰く、虎汝四足あり、我また四足あり、汝来って共に闘え、何を以て怖れて走ると。虎答えていわく、汝毛|竪《た》ちて森々《しんしん》たり、諸畜中下極たり、猪汝速やかに去るべし、糞臭堪ゆべからずと。猪自ら誇って曰く、摩竭と鴦の二国、我汝とともに闘うを聞かん、汝来って我と戦え、何を以て怖れて走る。虎答う、身を挙げて毛皆|汚《きたな》し、猪汝が臭我を薫ず、汝闘うて勝ちを求めんと欲せば、我今汝に勝ちを与えんと。これは、鳩摩羅迦葉尊者《くまらかしょうそんじゃ》が無分別な者にかなわぬという譬喩に引いたのだが、とにかく虎も猪の汚臭には閉口すると見える。
ところが、ロメーンズは、豕の汚臭は本《もと》その好むところにあらず、ただこの物乾熱よりも湿泥を好み、炎天に皮膚の焼かるるを嫌《いと》うて泥に転がる。さればその汚く臭くなるは、豕自身よりは飼い主の過失だと論じある(『動物の智慧』五版、三四〇頁)。これは酒を好む者を咎めずに盃を勧めた人を譴《せ》めるような論で、ラクーンが食物を獲るごとに洗わずんば喫《く》わず、猫が大便を必ず埋めるなどと異なり、豕が湿泥を好むはもっともとしても、本来汚臭を厭わず糞穢を食うというが、既にその大欠点といわざるを得ぬ。南洋タヒチ島原産で今日絶え果てた豕ばかりは、脚と鼻長く、毛羊毛ごとく曲り、耳短く立ちて一汎の豕より体小さく、清潔で汚泥を好まなんだという(エリスの『多島洲探究記』一八二九年版、三四九頁)。豕が泥中に転がる事人に飼われた後始まったのでなく、野猪既に泥中に転がるを好みこれをヌタを打つという。虻《あぶ》蚊を禦《ふせ》ぐため身に泥を塗るのだそうな。ヌタは泥濘の義だ。食物に今日ヌタというも泥に似たからで、本《もと》ヌタナマスといったらしい。『醒睡笑』三に「天に目なしと思い、ヌタナマスを食いぬる処へ旦那来り見付けたれば、ちと物読みたる僧にやありけん、よきみぎりの入堂なるかな、ここに歴劫《りゃくこう》不思議の法味あり、まず天地の間に七十二候とて時の移るに応じ、物の変り行く奇特を申さん。田鼠化して鶉《うずら》となり、雀海中に入って蛤《はまぐり》となり、鳩変じて鷲《わし》となるという事あるが、愚僧が菜《さい》にすわりたるあえもの変じてヌタナマスと眼前になりたる、この奇特を御覧ぜよ」てふ笑譚を出す。『本草啓蒙』四七に「野猪年を経るものは甚だ大にして牛のごとくなるものあり、甚だしきは背上木を生ずるものあり」。『甲子夜話』五一に、吉宗将軍小金原に狩りして、自ら十文目の鉄砲で五月白と名づけた古猪の頭を搏《う》ち、猪一廻りした処を衆人折り重なって仕留めた。年|歴《へ》た物で鼻|尖《さき》に白毛生じ、背には小木生じて花の白く咲けるよりこの名を負いしという。猪の類はすべて澗泥《かんでい》を以てその背を冷やす。これをニタという。この泥自ずから身毛に留まってこれに木生ぜしなりと。戦士の傷口に詰め込んだ土から麦が生えた話や、繃帯《ほうたい》の上に帽菌が生えた譚もあれば、全く無根でもなかろう。『曾我物語』に、仁田忠常が頼朝の眼前で仕留めた「幾年経るとも知らざる猪がふしくさかく[#「ふしくさかく」に白丸傍点]十六付きたるが」とは誤写で、何とも知れがたいが、多分何かの木が生えていたとあったのかと思う。
周密の『癸辛雑識』続上に、北方の野猪大なるもの数百斤、最も※[#「けものへん+廣」、第4水準2−80−55]※[#「けものへん+旱」、299−15]《こうかん》にして猟《と》りがたし、毎《つね》に身を以て松樹を摺《す》り脂を取って自ら潤し、しかる後に沙中に臥し沙を膏に附く。これを久しゅうして、その膚堅く厚くて重甲のごとし、帯甲猪と名づく、勁弩《けいど》といえども入る能わず。これを聞きはつっての話か、または事実か、わが邦にも『本草啓蒙』四七に、毎夜野猪往来の道が幽谷に人の通行すべきほど長く続く、これをシシミチという。その路に処々大木の皮摩損するものあり。土地の掘れたる処あり。これ土あるいは木脂を身に摩《す》り傅《つ》けて堅くするなり。『本草集解』に、松脂《まつやに》を掠《かす》め沙泥に曳《ひ》き、身に塗りて以て矢を禦ぐというこれなり。一条兼良《いちじょうかねら》公の『秋の寝覚《ねざめ》』下にも「猪と申す獣は猛なる上に、松の脂もて身を堅め候故矢も立つ事候はぬ由なれば、その心は武士の眼として猪の目すかす事になん」とある。猪の目という事は後に述べよう。支那人は松脂を長寿不死の妙剤とするところから、こんな説も出たであろう(永尾竜造氏の『支那民族誌』上巻一一四頁参照)。
欧州でも、一七二四年ダブリン版、アーロン・クロッスリーの『紋章用諸物の意義』ちゅう、予未見の書に、野猪は角を具えぬが、獣中最強のものだ。強く鋭くて、能く敵を傷つくべき牙と、自ら身を衛《まも》るべき楯を持つ。しばしば肩と脇を樹に摺り堅めて楯とすると載せ、一五七六年ロンドン版、ジェラード・レーの『武装事記』には、野猪闘わんと決心したら、左の脇を、半日間※[#「木+解」、第3水準1−86−22]樹に摺り付け堅めて、敵の牙の立たぬようにするとある由(一九二〇年、『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯六巻二三八頁、クレメンツ氏説)。故に、彼方《かなた》の紋章を画くに、多くは材木を添えある。
ついでにいう。享保三年板|西沢一風《にしざわいっぷう》作『乱脛三本鑓《みだれはぎさんぼんやり》』六に、小鼓打ち水島小八郎、恩人に頼まれた留守中その妻を犯さんとして遂げず、丹波の猪野日村に旧知鷹安鷲太郎を尋ねる。鷲太郎山より帰り小八郎を見て、京へ登りしよりこの方《かた》文一本くれぬ不届者《ふとどきもの》、面談せば存分いいて面の皮を剥《は》ぐべしと思いしが、向うししには矢も立たず、門脇の姥《うば》にも用というを知らぬ人でもなし、のふずも大方直る年、まず何として来るぞと問う。アラビヤ人の常諺に、信を守る義士は雄鶏の勇、牝鶏の察、獅子の心、狐の狡、※[#「けものへん+胃」、第4水準2−80−43]《はりねずみ》の慎、狼の捷、犬の諦《あきら》め、ナグイルの貌《かたち》と、野猪の奮迅を兼ね持たねばならぬといったごとく、断じて行えば鬼神もこれを避くで、突き到る野猪の面には矢も立たぬという意かと思うたが、それでは通じない例が多いようだ。最近に、享保十八年板『商人軍配団』四を見ると、向う猪に矢が立たぬとて、直ちに歎かば、鬼のような物も、心の角《つの》を折るものなりとありて、原意は、ともかく、当時専ら謬《あやま》り入って来る者を、強いて苦しめる事はならぬという喩《たと》えに用いたと見える。昔の諺を解するは随分むつかしい。
エストニヤの譚に、王子豕肉を食うて鳥類の語を解く力を獲《え》、シシリアの譚は、ザファラナ女、豕の髭三本を火に投じてその老夫たる王子を若返らせ、露国の談に、狼が豕の子を啖わんと望むとその父われまず子を洗い伴れ来るべしとて、狼を橋の下の水なき河中に俟《ま》たしめ、水を流してほとんど狼を殺す事あり。さればアリストテレスは、豕を狼の敵手と評し、ギリシャの小説にこの類の話数あり(グベルナチス『動物譚原』二巻一一頁)。猪の美質を挙げた例このほか乏しからず。
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