貝原益軒は、猫は至って不仁の獣なるも他の猫の孤児を乳養するは天性の一長と称讃したが(『大和本草』一六)、『後周書』に、陸逞|京兆尹《けいちょうのいん》たりし時都界の豕数子を生み、旬を経て死す。その家また豕ありてこれを乳養して活かしたといい、『球陽』一三に、尚敬王の時田名村の一母猪子を生み八日後死んだが、その同胞の牝猪孕めるがその小豚を乳育す。いくばくならず自分も子を生んだが一斉に哺養《ほよう》したと記す。気を付けたらしばしば例あるかも知れぬ。
 古スパルタ人は万事軍隊式で、豕までも教練厳しく行われその動作乱れず、鈴音に由って整然進退したとマハッフィの一著書で読んだが今その名を記憶せぬ。ジョンソン博士は見せ物に出た犬や馬の所作をことごとく似せたいわゆる学んだ豕を評して、豕の普通に愚鈍らしきは豕が人に反《そむ》けるにあらず、人が豕に反けるなり。人は豕を教育する時日を費やさず、齢一歳に及べば屠殺するから、智能の熟するはずがないと言った(ボスエルの『ジョンソン伝』七十五歳の条)。かつて野猪を幼時から育てた人の直話に、この物|稠人《ちゅうじん》中によく主人を見出し、突然鼻もて腰を突きに来るに閉口した。絆《きずな》を解いて山へ帰るかと見るに、直ちに家へ還った事毎々だったと。予が現に畜《か》う雄鶏は毎朝予を見れば啄《つつ》きに来る。いずれも怪しからぬ挨拶のようだが、人間でさえ満目中に口を吸ったり、舌を吐いたり、甚だしきは唾《つば》を掛くるを行儀と心得た民族もあり、予などは少時人の頭を打つを礼法のごとく呑み込んでいた事もあるから、禽獣の所為を咎《とが》むべきでない。唐五行志に、乾符六年越州山陰家に豕あり、室内に入って器用を壌《やぶ》り、椀缶《わんふ》を銜《ふく》んで水次に置くと至極の怪奇らしく書き居るが、豕が毎《つね》に人の所為を見てその真似をしたのであろう。
 仏人が、トルーフル菌を地下から見出すに使うた犬の代りに豕を習わして用うるは皆人の知るところで、嗅覚がなかなか優等と見える。ホーンの『ゼ・イヤー・ブック』一八六四年版一二六頁に、豕能く風を見るてふ俚言を載す。豕の眼は細いが風の方向を仔細に見分くるのであろう。人間にも一つの感覚で識《し》るべき事相を他の感覚で識り得るのがあって、ある人妻の体内にある故障ある時、何となく自分の口中にアルカリ味を覚えるあり。
 三十三年前、予米国ミシガン州アンナボアに佐藤寅次郎氏と野原の一つ家に住み、自炊とは世を忍ぶ仮の名、毎度佐藤氏が拵《こしら》え置いた物を食って出歩く。厳冬の一夜佐藤氏は演説に出で、予一人二階の火も焚《た》かざる寒室に臥せ居ると、吹雪しきりに窓を撲《う》って限りなくすさまじ。一方の窓より異様の感じが起るので、少しく首を転じて寝ながら睹《み》ると、黒紋付の綿入れを着た男が抜刀を提《ひっさ》げて老爺を追うに、二人ながら手も足も動かさず、眉間尺《みけんじゃく》の画のごとく舞い上り舞い下りる。廻り燈籠《どうろう》の人物の影が、横に廻らず上下に旋《まわ》ったらあたかも予が見た所に同じ。しかし影でなくて朦朧《もうろう》ながら二人の身も衣装もそれぞれ色彩を具えた。地体《じたい》この宅従前住人絶え家賃すこぶる低廉なるは、日本で見た事もない化物屋敷だったのを世話した奴も不届《ふとどき》だが、佐藤は俺より早く宿ったから知っていそうなものと、誰彼を八ツ当りに恨みながら見れば見るほど舞って居るのは、本国の田舎芝居の与一と定九に相違ないので、雪降りの山崎街道も聞き及ばねば、竹田|出雲《いずも》が戯作の両人がふるアメリカへ乗り込む理窟もなしと追々勘付き出し、急に頭を擡《もた》ぐるとたちまち幻像は消え失せたが跡に依然何か舞うて居る。いよいよ起きてその窓に歩み寄ると、室内たちまち真闇《まっくら》で咫尺《しせき》を弁ぜず。色々捜して燈を点《とも》しよく視《み》ると、昼間鶏が二階のこの室に走り込んで突き破って逃げ飛んだ硝子《ガラス》窓の破処から、吹き込む雪|雑《まざ》りの寒風がカーテンに当って上り下りしおりその風の運動が件《くだん》の両人の立ち廻りと現われ、消え失せた後もなお無形の何かが楕円軌道を循環すると見えた。
 錯覚といえば、それなりに済ましてしまうべきも、われら四十五、六歳までは或る一定の程度において嚢子菌の胞嚢を顕微鏡なしに正しく見得た。こんな異常の精眼力には風中の雪の微分子ぐらいの運動の態が映ったかも知れず、豕が風を見るというのもまるで笑うべからず。予の眼力の驚くべく良《よ》かった事は、一九一四年『英国菌学会事報』七〇頁と、一九一八年『エセックス野学倶楽部特別紀要』一八頁に、故リスター卿の娘でリンネ学会員たるグリエルマ嬢が書き立て居る。[#地から2字上げ](大正十二年四月、『太陽』二九ノ四)

       3

 前項に享保三年に出た『乱脛三本鑓』に見る「向うししには矢も立たず」てふ諺を説いたが、野猪の事としてはどうも解し得ない。その後それより三十二年前、貞享《じょうきょう》三年板『諸国心中女』を見ると、巻四「命を掛けし浮橋」の条、京都の西郊に豊かに住む人の美妻が夫の仕う美少年と通じ、夢を見て大いに悔悟し夫に向って始終を語り歎くと「向う鹿に矢の立たぬと男|易《やす》く赦してけり」とある。英国等の鹿は窮すれば頭を下げ角を敵に向ける。日本のもそうするのであろう。それを低頭して哀れを乞うものと見て件《くだん》の諺を作ったものか。鹿はカノシシ、野猪はイノシシ、紀州の鹿瀬、井鹿、いずれもシシガセ、イジシ。どちらもシシと古く呼んだのでこの諺にいうシシは、野猪でなくて鹿であろう。
 ついでにいう。『甲子夜話』続篇八〇に、松浦天祥侯程ヶ谷の途の茶店にて野猪の小なるを屠《ほふ》るを見る。毛白くして淡赤なり。奇《あや》しく思いその名を聞くにカモシシと答う。問うカモシシは角あるにあらずや。曰く、それはカモシカ、これはカモシシにて違い候と。珍しき事と聞き過ぎぬと記す。普通に深山に住むニクといいて山羊に似た獣をカモシカともカモシシとも呼ぶ(『重訂本草啓蒙』四七)が、丹峯和尚の『新撰類聚往来』上に※[#「けものへん+完」、305−13]猪カモシシと出す。※[#「けものへん+完」、305−13]字音豹と『康煕字典』にあるのみ、説明がない。しかし完《かん》と※[#「けものへん+權のつくり」、305−14]《かん》と同音故、※[#「けものへん+權のつくり」、305−14]の字を※[#「けものへん+完」、305−14]と書いたと見える。郭璞《かくはく》の『爾雅』註に猯と※[#「けものへん+權のつくり」、305−15]を一物とす。李時珍は、猯は後世の猪※[#「けものへん+權のつくり」、305−15]、※[#「けものへん+權のつくり」、305−15]は後世の狗※[#「けものへん+權のつくり」、305−15]で、二種相似て異なりと説いた。モレンドルフ説に、猪※[#「けものへん+權のつくり」、305−16]はメレス・レプトリンキュス、狗※[#「けものへん+權のつくり」、305−16]はメレス・レウコレムス。小野蘭山は、猪※[#「けものへん+權のつくり」、306−1]すなわち猯は、日本でマミまたミダヌキまたキソノカワクマと称え体肥えて走る事遅し、狗※[#「けものへん+權のつくり」、306−2]は、駿河《するが》でアナホリと呼び体|痩《や》せて飛鳥のごとしと述べた。貝原益軒は、猯マミ、ミタヌキともいい、野猪に似て小なり、味善くして野猪のごとしといった。和歌山旧藩主徳川頼倫侯が住まるる麻布《あざぶ》のマミ穴の名、これに基づく事は『八犬伝』にも見える。このマミは今日教科書などに専らアナクマ、学名メレス・アナクマで通り居るもので、形も味も野猪にほぼ似て居るが啖肉獣で野猪の類じゃない。日本に専ら産し支那の猪※[#「けものへん+權のつくり」、306−7]と別らしいが、大要は似て居るから本草学者がこれを猯一名猪※[#「けものへん+權のつくり」、306−7]に当てたのだ。しかしよく考えると、本草家ならでも丹峯和尚もこの獣を知りて猪※[#「けものへん+權のつくり」、306−8]に当て※[#「けものへん+完」、306−8]猪と書いたので、その頃これをカモシシと呼んだその名がわずかに程ヶ谷辺に延宝年間まで残り在《い》たのだ。氈和名カモ、褥呉音ニク、氈にも褥にもなったので、羚羊をニクともカモシシまたカモシカというといえば、マミの毛皮も氈の用に立てたのでカモシシといったものか。とにかく松浦侯が程ヶ谷で見たカモシシは野猪でなくて、外形ややそれに似たマミすなわちアナクマだ。而《しか》して蘭山のいわゆるアナホリは、マミの一異態か只今判じがたい。(『本草綱目』五一。『重訂本草啓蒙』四七。『大和本草』一六。『円珠菴雑記』鹿の条。『皇立亜細亜協会北支那部雑誌』二輯十一巻五二―五三頁。)
 また前項にちょっと述べ置いたトルーフル菌は欧州に食道楽の旅をした人のあまねく知るもので、予は余りゾッとせぬが彼方《かなた》では非常に珍重し、予の知人にトルーフルを馳走するとの前置きで、いかがわしい女を抱き捨て御免にして智謀無双と自ら誇っていた者があった。真正のトルーフルは一八九七年までに三十五|乃至《ないし》五十五種ほど発見されいた。松村博士の『帝国植物名鑑』上に、チュンベルグの『日本植物編』に拠って本邦にも一種あるよう出しおれど、白井博士の『訂正増補日本菌類目録』にはこれを載せず。予はこの二十三年間鋭意して捜したれど、わずかにトルーフルに遠からぬエラフォミケス属の菌に寄生するコルジケプス一種を獲たばかりで、真のトルーフルを見出さない。真のトルーフル中最も重要なはチュベール・メラノスポルム。これは円くて麁《あら》い疣《いぼ》を密生し、茶色または黒くその香オランダ苺《いちご》に似る。上等の食品として仏国より輸出し大儲けする。秋冬ブナやカシの下の地中に生ず。イタリアでもっとも貴ばるるチュベール・マグナツムは疣なく、形ザッと蜜柑《みかん》の皮を剥いだ跡で嚢の潰れぬ程度に扁《ひら》めたようだ。色黄褐で香気は葱《ねぎ》と乾酪《チーズ》を雑《まじ》えたごとし。だから屁にもちょっと似て居る。秋末、柳や白楊や樫の林下の地中また時として耕地にも産す。前年御大典に臨み、外賓に供するに現なまのトルーフルと緑色の海亀肉を用いたらそっちも歓《よろこ》びこちらも儲けると、今更気付いた人あって、足下《そっか》は当世の陶朱子房だから何分|播種《はしゅ》しくれと、処女を提供せぬばかりに頼まれたが、所詮盗人を見て縄をなう急な相談で、紀州などには二物ともに恰好の地があるがそう即速には事行かなんだ。
 何故トルーフルがかく尊ばるるかというに、相も変らず古今を通じて浮世は色と酒で、この品殊に精力を増すから、旧《ふる》く嬌女神アフロジテの好物と崇められ諸国王者の珍羞たり。化学分析をやって見るに著しく燐を含めりとか。壮陽の説も丸啌《まるうそ》でないらしい。したがって尾閭禁ぜず滄海《そうかい》竭《つ》きた齶蠅《がくよう》連は更なり、いまだ二葉の若衆より※[#「囗<睛のつくり」、第3水準1−15−33]《かわや》に杖つくじいさんまでも、名を一戦の門に留めんと志す輩《やから》、皆争うてこれを求めたので、トルーフルを崇重する余りこれを神の子と称えた碩学《せきがく》すらある。これその強補の神効を讃えたに出づるはもちろんなれど、また一つはこの物土中に生ずるを不思議がる余り雷の産む所としたにもよる。支那でも地下にある多孔菌一種の未熟品を霹靂《へきれき》物を撃って精気の化する所と信じ雷丸雷矢すなわち雷の糞と名づけ、小児の百病を除き熱をさます名薬とした。ただし久しく服すれば人を陰痿《いんい》せしむとあるからトルーフルの正反対で、現今の様子ではこっちを奨励せにゃならぬかも知れぬ。(一八九二年パリ版、シャタン著『ラ・トルフ』。エングレルおよびプラントンの『植物自然分科』一輯一巻二八六―七頁。『大英百科全書』十一版二七巻三二二頁。『本草綱目』三七。ブラントーム
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