の『レー・ダム・ガラント』一には、トルーフル女人にもよく廻るとある。)
さてトルーフルを採る法をシャタンの書に種々述べたが、就中《なかんずく》最も有効なは豕で、犬これに次ぎ、稀には人間の子供が犬豕よりもトルーフルの所在を嗅ぎ付けるのがあるそうだ。豕はよく四、五十メートルを隔ててもこれを嗅ぎ知り、直ちに走って鼻で掘り出す。中にはトルーフルをくわえて主人の手に授くるのもあるというがどうも法螺《ほら》らしいと。豕はトルーフルを掘り出しおわると直ちに主人に向って賃を求める。その都度《つど》樫の実などを少々賞与せぬと、労働は神聖なりと知らぬかちゅう顔してたちまちそのトルーフルを食いおわり、甚だしきは怠業してまた働かぬそうだ。豕も随分ずるいもので、相当に樫の実を貰いまた樫の棒でどやされるにかかわらず、ややもすれば隙《すき》を伺うてトルーフルをちょろまかす。二歳頃より就業して二十また二十五歳まで続くものあり。その技能もとより巧拙あって、よい豕は二時間にトルーフル三十五キログラムを掘り出したという。日本の九貫三百三十五匁余で、拙妻など顔は豕に化けてもよいから、せめてそれだけの炭団《たどん》でも掘り出してくれたら、冬中大分助かるはずだとしみったれた言で結び置く。
かように豕の性質について善い点を探れば種々多かるべきも、豕が多食・好婬・懶惰《らんだ》で穢《きたな》い事を平気というは世に定論あり。『西遊記』の猪八戒《ちょはっかい》は最もよくこれを表わしたものだ。猪八戒前生天蓬元帥たり。王母|瑶池《ようち》の会、酔いに任せて嫦娥《じょうが》に戯れし罰に下界へ追われ、錯《あやま》って猪の腹より生まれたという。猪を邦訳の絵本にイノシシと訓《よ》ませ居るが、それでは烏斯蔵《トカラ》国の高太公の女婿となって三十人前の食物を平らげたり、三年間妻を密室に閉じ籠めて行ない続けたり、渡天の途中しばしば女事で失敗したり、殊にはこの書の末段に、仏勅して汝懶惰にして色情いまだ泯《ほろ》びざれども浄壇使者と為《な》すべし、汝|原《もと》食腸寛大にして大食を求む。諸農の仏事供養の時汝壇を浄《きよ》めるの職にあれば供養の品々を受用して好《よ》からずやと宣《のたも》うなどその事もっぱら家猪に係り、猪八戒は豕で野猪でないと証明する。
仏教の生死輪の図は、無常の大鬼輪を抱き輪の真中の円の内に仏あり。その前に三動物を画き、鴿《はと》は多貪染、蛇は多|嗔恚《しんに》、豕は多愚痴を表わす。この中心の円より外の輪に五、六の半径線を引いてその間に天・人・餓鬼・畜生・地獄の五趣、チベットでは、非天を加えて六趣を画く(『仏教大辞彙』一巻一三三八頁に対する図版参照。一八八二年ベルリン版、バスチアンの『仏教心理学』三六五頁および附図版)。これより転出したようなは、ブリタニーの天主教寺の縁日に壁に掛けて僧が杖もて絵解《えとき》する画幅で、罪業深き人の心臓の真中にある大鬼を七動物が囲繞《いにょう》の体《てい》だ。その蛙は貪慾、蛇は嫉妬、山羊は不貞、獅は瞋恚、孔雀は虚傲、亀は懶惰、豕は大食を表わす(『ノーツ・エンド・キーリス』九輯六巻一三六頁)。かく豕を表わすところ、仏教の愚痴、耶蘇教に大食と異なれど両《ふた》つながら碌《ろく》な事でない。
天主教の尊者アントニウスは教内最初の隠蟄者で専修《せんじゅ》僧の王と称せらる。西暦二五一年エジプトに生まれ、父母に死なれてその大遺産を隣人と貧民に頒《わ》け尽し、二十歳からその生村で苦行する事十五年の後、移りてピスピル山の旧寨《きゅうさい》に洞居し全く世と絶つ事二十年。四世紀の初め穴から這い出て多く僧衆を聚《あつ》め、更に紅海際の山中に隠れ四世紀の中頃|遷化《せんげ》した。その苦行を始めた当座はあたかも、悉達《しった》太子出家して苦行六年に近く畢鉢羅《ひっぱら》樹下《じゅげ》に坐して正覚《しょうがく》を期した時、波旬《はじゅん》の三女、可愛、可嬉、喜見の輩が嬌姿荘厳し来って、何故心を守って我を観《み》ざる、ヤイノヤイノと口説き立てても聴かざれば、悪魔手を替え八十億の鬼衆を率い現じて、汝急に去らずんば我汝を海中に擲《なげう》たんと脅かしたごとく、サタン魔王|何卒《なにとぞ》アントニウスの出家を留めんと雑多の誘惑と威嚇を加えた。すなわちまず海棠《かいどう》を羞殺《しゅうさい》して牡丹を遯世《とんせい》せしむる的の美婦と現じて、しみじみと親たちは木の胯《また》から君を産みたりやと質問したり、「女は嫌いと口にはいうて、こうもやつれるものかいな」などと繰りたり、私だってイじゃありませんかと、手で捜りに来たり、誘惑の限りを尽すも少しも動ぜぬから、今度はいよいよ化け物類の出勤時間、草木も眠る真夜中に、彼ら総出で何とも知れぬ大声で噪《さわ》ぎ立て、獅・豹・熊・牛・蝮蛇《まむし》・蠍《さそり》・狼の諸形を現じて尊者の身が切れ切れになるまでさいなんだが、本人はロハで動物園を拝見したつもりで笑うて居るから埒《らち》が明かず。時に洞窟の上開いて霊光射下り諸鬼皆|※[#「やまいだれ+音」、第3水準1−88−52]《おし》となり、尊者の創《きず》ことごとく愈《い》えて洞天また閉じ合うたという。この時サタンが尊者を誘惑|擾乱《じょうらん》に力《つと》めたところが欧州名工の画題の最も高名な一つで、サルワトル・ロザ以下その考案に脳力を腎虚させた。
それからまた奇談といわば、アントニウス尊者|荒寥地《こうりょうち》に独棲苦行神を驚かすばかりなる間、一日天に声ありてアントニウスよ汝の行いはアレキサンドリヤの一|履《くつ》繕い師に及ばずと言う。尊者聞いてすなわち起《た》ち、杖に縋《すが》って彼所に往きその履工を訪うと、履工かかる聖人の光臨に逢うて誠に痛み入った。爾時《そのとき》尊者|面《おもて》を和らげ近く寄って、われに汝の暮し様を語れという。履工これは畏れ入ります、もとより手と足ばかりの貧乏人故何たる善根も施し得ませぬ。ただし朝起きるごとに自分の住み居る市内一同のため、分けては、遠きに及ぼすは近きよりすで、自宅近隣の人々と自分同然の貧しい友達の安全を祈ります。それが済んで仕事に懸り活計のために終日働きます。人を欺く事が大嫌いだから、一切の偽りを避け約束した言は一々履行します。かくして私は妻子とともに貧しくその日を送りながら、拙《つたな》い智慧の及ぶ限り妻子に上帝を畏敬すべく教えまする。このほかに、私の暮し様というものはありませんと語った。ラチマー曰く、この譚を聞いてまさに知るべし、上帝はそれぞれの職を勉め佯《いつわ》らず正しく暮す者を愛すと、アントニウスまことに大聖だったが、この貧乏至極な履工は、上帝の眼に、アントニウスと何の甲乙なかったと。以上は予往年大英博物館で読んだ一七一三年ロンドン板ホイストンの『三位一体と化身に関する古文集覧』および一八四五年版コルリーの『ラチマー法談集』より抄し置いたものに、得意の法螺を雑えたので、すべてベイコン卿の言の通り法螺の入らぬ文面は面白からぬ。しかしこれから法螺抜きでやる。
件《くだん》のアントニウス尊者は紀州の徳本《とくほん》上人同様、不文の農家の出身で苦行専念でやり当てた異常の人物だ。その値遇《ちぐう》の縁で出家専修した者極めて多ければ、当時エジプトの人数が僧俗等しといわれた。そのコンスタンチン大帝の厚聘《こうへい》を却《しりぞ》けてローマに拝趨《はいすう》せなんだり、素食《そしょく》手工で修業して百五歳まで長生したり、臨終に遺言してその屍の埋地を秘して参詣の由なからしめ、以てガヤガヤ連の迷信の勃興を予防したなど、その用意なかなか徳本輩の及ばないところだ。されば今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《およ》んで欧州諸国にその名を冠した寺院も男女も多い(ギッボンの『羅馬衰亡史』三七章。スミスの『希羅人伝神誌辞彙』一八四四年版一巻二一七頁。チャムバースの『日次書』一巻一二六頁。『大英百科全書』十一版二巻六九頁参照)。
さてアントニウス尊者の伝を究めて吾輩のもっとも希有《けう》に感じた一事は、この尊者壮歳父母に死に別れた時、人間栄華一睡の夢と悟って、遺産をことごとく知友貧人に頒与《はんよ》し、百千の媚惑脅迫と難闘して洞穴や深山に苦行を累《かさ》ねたが、修むるところ人為を出《いで》ずで、妻を持ち家を成し偽り言わず神を敬し、朝から晩まで兀々《こつこつ》と履の破れを繕うて、いと平凡に世を過したアレキサンドリヤの貧しい一靴工に比べて、天の照覧その功徳に径庭《けいてい》少しもなしと判ぜられた。して見ると、この靴工が毎朝隣人や貧者のために真心籠めた祈念の効は、尊者が多大の財産を慈善事業に撒《ま》き散らしたのと対等で、一生女に寄り付かず素食して穴居苦行しただけ尊者の損分じゃてや。
そもそも、熊楠幼時より信心厚く、何でもござれで諸宗の経典に眼を晒《さら》し、断食苦行などは至極の得手物で、先日円寂した土宜法竜大僧正など、汝出家せば必ず中興の祖師となれると勧められた。毎度のこと故その気になってしからばなって見ようというと、『維摩経《ゆいまぎょう》』に、法喜を以て妻とし慈悲心を女となし、諸淫舎に入りては欲の過ちを示し、諸|酒肆《しゅし》に入りては能《よ》くその志を立つとある。貴公酒を飲みながら勉強するは知れ渡り居るが女の方は如何と問うた。予は生来かつて女に構わぬと答えると、それは事実かと反問した。初め予ロンドンに著《つ》いた夜勝手が分らず、ユーストン街にユダヤ人が営む旅館に入って日夜外出せず。客の間に植物標本を持ち込んで整理し居る内、十七、八の女毎度|馴々《なれなれ》しく物言い懸ける。予は植物の方に潜心して返事せぬ事多きに屈せず、阿漕《あこぎ》が浦の度重《たびかさ》なりてそんな眼に逢う。処へその姉と称える二十四、五の女が来て、俗用の仏語で若い女を叱るを聴くと、その男はかつて女に会った事のない奴だ、かれこれと言うだけ無駄と知らぬか、商売柄目が利《き》かないにもほどがあるといった。翌日から若い女はさっぱり近寄り来らず、それでようやくこのいわゆる姉妹は仇《あだ》し仇浪|浅妻船《あさづまぶね》の浅ましい世を乗せ渡る曲物《くせもの》とも分れば、かかる商売の女は男子を一瞥《いちべつ》して、たやすくその童身か否かを判ずる力ぐらいは持つものとも知った。しかるに今人天の師とも仰がるる土宜師にそれほどの鑑識もなく、みだりに予の童身を疑うは高僧果して娼婦にしかず。畢竟《ひっきょう》、後白河上皇が仰せられた通り、隠すは上人、せぬは仏で(『沙石集』四の二)、日本に清僧は一疋もなく従って鑑識もその用を要せぬからだ。誰も頼まぬ禁戒など守ってそんな僧たちに讃められてからが縁の下の舞いと気が付いたところへ、折よく右のアントニウスの伝を読んで、無妻で通した聖人も人間並みに暮した靴屋も功徳に異《かわ》りがないと知って、なるほど穴に居るより、これは一番穴――が迥《はる》かましとの断定、その頃来英中の現在文部大臣鎌田栄吉君に、何とも俺のようなむつかしい男にも妻に来る女があるだろうかと問うと、そこは破《わ》れ鍋にとじ蓋《ぶた》、ありそうなものと、三語の掾《じょう》にも比すべき短答。帰朝して六年めに四十歳で始めて娶ったが二十八歳の素女で、破れ鍋どころか完璧だった。他《かれ》十二分の標緻《きりょう》なしといえども持操貞確、案《つくえ》を挙げて眉に斉《ひと》しくした孟氏の女《むすめ》、髪を売って夫を資《たす》けた明智《あけち》の室、筆を携えて渡しに走った大雅堂の妻もこのようであったかと思わるる。殊に予の菌学を助けて発見すこぶる多ければ、今日始めて亭主たるの貴きを知ると満足し居る。前年木下(友三郎)博士予の宅に来りこの琴瑟《きんしつ》和調の体を羨み鎌田に語ると、大分参って居ると見えるといったと『伏虎会雑誌』に出た由。昔|上杉憲実《うえすぎのりざね》|遯世《とんせい》して遠竄《えんざん》せしを、主人|持氏《もちうじ》を非業に死なせた報いと噂するを聞いて、われまた以て然《しか》りとなすと言った。
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