熊楠も破れ鍋、ドッコイ、完璧に逃げられては換えがないから、実際よっぽど参って居ると自白して置く。これを要するにアントニウス伝を読んで廓然大悟し、人の人たる道を踏み切ったは、鎌田文相の独断で教科書に書き入れしめて然るべしだ。
随分日も永いがこんな脱線を続くるとこの狭い町内の紙価を傾ける道理故一心に猪の話を書き続けよう。天主教は唯一上帝を尊むとは口先ばかりで、実は無類の多神教たり。あたかも仏教に梵教の諸天を入れたごとく、キリスト教に欧州在来の諸神を尊者化して入れたので、ついに年中尊者の忌日を絶やさず、万《よろず》の事物に守護の尊者を欠くなきに至った。ヨセフ尊者は大工を護り、グレゴリ尊者は左官を司り、リエナール尊者は監獄、ミケル尊者は麪包《パン》屋、アフル女尊者は女郎屋、ジュスト尊者は料理屋、ジャングール尊者は悪縁の夫婦を冥加《みょうが》し、ガウダンス尊者は蠍を除き、ラボニ尊者は妻を虐《しいた》ぐる夫を殺し、ロマリク尊者は水なき処に水を出しまた癩病を治し、アンヌ女尊者は紛失物を露《あら》わし、オワン尊者は聾を療し、レジュール尊者は肥満を減じ、ボニファス尊者は、痩せ男を肥えしむるなど、諸般の便利備わらぬはなし(サウゼイの『随得手録』三輯三六六頁。コラン・ド・プランシーの『遺宝霊像評彙』各条)。されば事業うまく行かぬ人を、どの尊者に頼んでよいか知らぬ人と呼ぶに及んだ。
就中《なかんずく》、豕の守尊者はエンデリウス尊者でドイツのエンデル町にその堂あり。スコットランド王の子で宮中の栄華に飽き大陸に渡って僧寮を主《つかさど》ったという。中世僧侶欧州に充満し怠惰して大食ばかりしたから僧ほど肥えたちゅう諺あり。豕も遊佚《ゆういつ》大食する故豕ほど肥えたという。それから何となく僧を豕の棒組と見做《みな》すに及んだ。前条に長々と伝記を述べたアントニウス尊者は諸畜を司り別して豕の守護尊たり。フラーいわく、この尊者は豕同然に土に穴掘って住み根を掘って食うからだろうと。グベルナチスは北欧のトール神は婚姻を司り豕を使物とし、この尊者また婚姻を護れば豕を愛すとされたものかと説いた。アンリ・エチアンヌは、この尊者出家前農を務め豕を飼い、死後無数の愚僧その余慶で飽食放逸したという意味らしき古詩、アントニウス世にありては豕を飼い、身死しては僧を飼う、斉しくこれ肥えて馬鹿で麁悪《そあく》な物と詠《よ》んだのを引いた。つまり僧と豕を一視するの盛んなるより尊者を豕の守護尊としたらしい(『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯第十一巻三一六頁。グベルナチス『動物譚原』二巻六頁。エチアンヌの『エロドト解嘲《かいちょう》』二二章)。『小夜《さよ》嵐』三に、ぶたのもしき坊主とあるは頼みにならぬ坊主で豕に関係なし。僧と豕について次の珍談あり。
十六世紀にナヴァル女王マーゲリットが書いた『エプタメロン』三四譚に述べたは、一夜灰色衣の托鉢僧二人グリップ村の屠家に宿り、その室と宿主夫婦の寝堂の間透き間多き故、臥《ね》ながら耳を欷《そば》だて聞きいると、嬶《かか》よ、明朝早く起しくれ、灰色坊主のうち一疋はよほど肥えているから殺して塩すると大儲けのはずと言う。この家に飼った豕を灰色坊主と名づけたと夢にも知らぬ二僧これを聞いて終夜眠らず、その一人甚だ肥満しいたのでてっきり自分は殺さるる、戸は鎖《と》ざされたから夫婦の室を通らにゃ遁《のが》れず、何としたものと痩せた僧に囁《ささや》くと、それよりこれが近道と、窓を開いて地に飛び下り友をも俟《ま》たずに逃げ去った。肥満僧続いて飛び出すはずみに体が重くて誤って落ち、片脚を損じて走り得ず。近くに豕箱あるを見付けて這い往き、戸を開くと大豕二頭突き出て去った。跡へ入って身を潜め誰か通らば救いを乞わんと思いいる内、暁方《あけがた》近く屠者はでっかい庖丁《ほうちょう》を磨《と》ぎ、北の方《かた》同道でやって来て箱の戸を明け、「灰色の坊様出てきやれ、今日こそお前の腸を舌鼓打って賞翫しょう」と大いに呼ばわる。坊主は身も世もあらぬ思いに腰全く抜け、どうぞ命をと叫びながら四つ這いで出るを見て夫婦も尻餅《しりもち》、平素畜生を灰色坊主と呼んだ故、灰衣托鉢僧団の祖師フランシス大士が立腹と早合点で、地にひれふし、大士と弟子たちの宥免《ゆうめん》を願い奉ると夫婦|叩頭《こうとう》、坊主も頓首《とんしゅ》し続けて互いに赦しを乞う事十五分間とは前代未聞の椿事なり。ようやく夕べ宿《とま》った坊様と知れてやや安堵すれば、僧また豕箱隠れの事由を語り、双方大笑いで機嫌は直れど損じた脚は愈えず。亭主気の毒さの余りかの僧を家に請じて鄭重にもてなす。痩せた坊主は終夜休まず走って朝方|荘官《しょうかん》方へ著き、怪しからぬ屠家へ宿った、同伴は続いて来ぬから殺されたは必定《ひつじょう》と訴え出たので、荘主フォルス卿、急ぎ人を馳せて検察せしむると右の始末と、聞いた者一人も泣かずに済んだと、後日フォルス卿がフランシス一世王の母アグレームン女公の臍《へそ》に茶を沸かしめて語った由。
『通俗三国志』に曹操《そうそう》董卓《とうたく》を刺さんとして成らず。故郷に逃げ帰る途中関吏に捕われしを、陳宮これを釈し、ともに走って、三日の暮方に成皐に到る。操曰く、そこの林中にわが父と兄弟のごとく交わった呂伯奢の家あり、今夜一宿しようと。すなわちその宅に入り仔細を話すに伯奢喜んで二人をもてなし、自ら驢に乗りて西村へ酒買いに往く。夜やや更《ふ》けて屋後に刀を磨《と》ぐ音す。曹操陳宮にこの宿主はわが真の親類でもなく、夜分出て往ったも覚束《おぼつか》なし。われらを生け取って恩賞を貪《むさぼ》るのでなかろうかと囁き、立ち聴きすると磨ぐ音やまず。さて二、三人の声して縛り殺せというた。さてこそ疑いなし、此方《こなた》より斬って掛かれと抜剣して進み入り、男女八人を鏖殺《おうさつ》して台所の傍を見れば生きた豕を繋《つな》ぎいた。陳宮悔いて全く豕を殺してわれらを饗する拵えだったに曹操急に疑うて無辜《むこ》を殺したと言う。曹操は過ぎた事は仕方がない、早く遁りょうと馬に乗って二里ほど逃げ伸びると、呂伯奢驢に騎し酒果携えて来り、二人の忙《いそ》ぎ走るを怪しみ何故早く去るぞ我家に豕一匹を用意した、是非一宿せよというを曹操たちまち刺し殺した。陳宮先に錯《あやま》って殺したは是非もないが、今また何で呂伯奢を殺したかと問うと、操人家に還って妻子の殺されたを見てそのままに置くべきかと答う。これより陳曹操の不仁を悪《にく》み、次の宿でその熟睡に乗じ刺し殺さんとしたが思い直してこれを捨て去り、後日|呂布《りょふ》の参謀となって曹操に殺されたとある。この話の方が『エプタメロン』の托鉢僧の譚より古いようだが、陣寿の『三国志』その他古書に見ゆるか、後代の小説に係るか只今調べ得ぬは遺憾だ。ただし『淵鑑類函』三〇九に〈初め太祖故人呂伯奢を過るや云々〉とあれば呂伯奢という人があったに論なし。
さてこの曹操呂伯奢を殺した譚に似たものが本邦にもある。いわく、大日《だいにち》という僧入宋して仏照徳光に参す。この大日は悪七兵衛景清が伯父なり。景清戦い負けて大日が所へ来る。大日|窃《ひそ》かに侍者を呼んで言いけるは景清見参疲れたり、酒を買い来り飲ませよという。侍者走りて出で行くを景清見て、我を源氏の方へ訴えて捕えんとするにやと心得、大刀抜き大日を切り殺しける(『梅村載筆』八巻)。
『摂陽群談』四、島下郡吹田村、涙池、土俗伝えていう。昔この所に悪七兵衛景清の伯父入道蟄居せり、寿永三年八島の軍敗走して景清ここに来る。伯父入道眠蔵に置いて軍労を助く。ある日温麦の打ち手というを聞き誤って、伯父の心替りと思い取って、忍んで入道を害し、寺を去り、この池に血刀を注ぐ。後またその訛《あやま》りを知って池水を手向け霊魂を弔う。因って景清涙池と称すると伝うる所なりとありて、この池はもと西行の「よし去らば、涙の池に身をなして、心のまゝに月宿るらん」などいう歌の名所なるに添えてかかる話を作り加えただろうといい居る。『塩尻』五四にも『載筆』と同話を出し、この事出処なお尋ぬべしとあるが、どうも曹操が刀を磨ぐ音と縛り殺せという声を誤解して呂氏の一家を殺した話から出たものでただ日本に畜類を縛して家内で殺す風と源平の頃豕がなかったから、単に酒を買いに出たのを密告に往ったと疑うての殺害と作ったり、麦条を打てといったのを己《おの》れを討つ企てと誤解して伯父を殺したと作り替えたと知らる。
予、大学予備門で習うた誰か英米人の読本にも類話があったが忘れしまった。その時講師たりし松下文吉という先生がこの話は日本の馬琴の逸話と同類だといわれただけ記憶する。それは何に拠ったか知らぬが、当時大いに売れた菊池三渓《きくちさんけい》の『本朝|虞初《ぐしょ》新誌』中巻に出でいた。馬琴が壮時一室に籠って小説を考案中、下女が茶を運び来る。馬琴は側に人ありとも知らず、今夜きっと下女を絞殺して、衣類を取り、屍体を井に投じて罪跡を隠そう、旨い旨いと独語して筆を措《お》いて微笑した。下女心配で堪《たま》らず、その昏《くれ》に跣《はだし》で逃げ帰り、その父兄|愕《おどろ》いて暇《いとま》を乞いに来たので馬琴不思議に思い、色々聞き糺《ただ》すと右次第、全く小説の妙趣向が浮かんだ欣喜の余りに出た独り言にほかならずと分り、大笑いで済んだとある。
[#地から2字上げ](大正十二年六月、『太陽』二九ノ七)
4
英国でボグス・ノルトンの豕はオルガンを奏すという俚語あり。以前その地の住民|怪《け》しからず粗暴|野鄙《やひ》だったに付けて、似合わぬ事の喩えの諺とカムデンは言った。レイの説にはその地の教区寺のオルガン手にピクス(豕)なる人が昔|在《い》たからと解き、ケイヴはかの地古くオクスフォード伯の領所で、教区寺のオルガンの楽鍵ごとにその端に伯家の紋章豕を鐫《え》りあるからと釈いた(今年一月十三日の『ノーツ・エンド・キーリス』三四頁)。俚諺の根源を説くに、かく種々ありて一定せず、いずれを正説と定めがたい。寛文二年板『為愚痴《いぐち》物語』六に秀吉公の時、千石少弐なる人、「万《よろず》の道にさし出で、人も許さぬ公儀才覚立てして差してもなき事をも事あり顔にもてなし、親しき朋友と寄り合い打ち頷《うなず》き呟《つぶや》きなどする事を好めり、さればその頃世人のさようの振る舞いする人をば千石少弐を略して千少もの、千少事などいいて上下笑い草となせり、それを今の代までも言い伝えたり、昔より言い伝えたる詞《ことば》に、文字にも当らず義理にもあらず、何とも知れざる詞多し、皆この類にてやあらまし、また僭上は古き字なり」と記す。僭上は身分不相応な上わぞりをする義で古来この語あり。ここに見えた千石少弐の行いと多少違うから、千少と僭上ともと別で後《のち》混一されたものか、ただしは僭上なる字を知らぬ人がたまたま千石少弐の行いを見聞して僭上を千少と曲解したのか、『為愚痴物語』を読んだばかりでは判じがたい。
往年広島在の高橋てふ男、大井馬城に随ってシンガポールに渡り放浪中、その頃日本領事だった藤田敏郎氏よりロンドン在留大倉喜三郎氏宛て「この者前途何たる目的もこれなく候えども、達って御地へ参り候に付き、しかるべく御世話頼み入り候なり」という古今無類の紹介状を貰い渡英したが、全く英国風に化せず、本国にある壮士同然の振る舞いに、大倉氏も愛憎をつかしほり出した。それから当時ロンドンで総領事だった荒川巳次君宅へ寄食したが、子供の守りをするがうるさいとかで逃げ出し、前途何たる目的もなしに一日大英博物館をうろつく内、余り異風な故守衛が何国の産かと問うと日本と答う。日本人なら館内に南方という人があると聞いてたちまち予に面会を求めた。既に多年海外にあって同国人にはひどい目にたびたび逢った予は余り好まなかったが、とにかく腹がへってかなわぬというから館外の食堂へ伴れ行き一食させ、事情を聞いて色々世話し、その頃高名の詩人サー・エドウィン・アーノルド夫人が日本生まれだったのでその厄
前へ
次へ
全9ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング