介にならせたところ、『史記』に見えた馮驩《ふうかん》同様少しも足るを知らぬ不平家で小言絶えず。殊に頭を丸剃りにして明治十三年頃新吉原を売り歩いた豊年糖売りがぶらさげた火の用心と大書した烟草《タバコ》入れを洋服の腰のポケットに挿して歩く。またアーノルド男宅の地下室で食事するに大食限りなきを面白がり、下女ども種々の物を供えくれるをことごとく平らげ、ついには手真似で酒を求め、追い追い酔いの廻るに随い遠慮もなくオクビを発し、頬杖《ほおづえ》突いて余肉を喫《く》うなど、彼方《あっち》の人のしない事ばかりする。
その頃英語で『ヒューマン・ゴリラ』てふ図入りの書を作った者あり。強姦に関する研究を述べたので、医学法学上大いに参考となり別に驚くに足りないものだったが、題号が突飛なので英国で出版むつかしくパリで出版して英国へ輸入した。ゴリラはわが国でヒヒというと斉しく大なる猴《さる》で、ややもすれば婦女を犯す由、古来アフリカ旅行記にしばしば見える。それからこの書に人間のゴリラと題号を附けたのだ。この事をどこかで高橋が聞き噛《かじ》り、例のごとくアーノルド男邸の地下室へ食いに往って悪戯《いたずら》をするうち猴の真似をした。下女どもはそれは何の所作事《しょさごと》かと尋ぬると、われは人間のゴリラであると飛んでもない言を吐いたから、下女ども大いに驚き用心して爾来|碌《ろく》に近寄らず。高橋は何の気も付かず、二、三日は下女|輩《ら》多忙で自分に構ってくれぬ事と思いいたが、幾日立っても至極の無挨拶なるに業をにやし、烈火のごとく憤って男爵夫人に痰呵《たんか》を切り、汝はわれと同国人なるに色を以て外人の妻となりたるを鼻に掛け、万里の孤客たるわれを軽んずるより下女までも悪態を尽すと悪態極まる言を吐いたので大騒ぎとなり、男爵大いに怒ってその朝限り高橋をお払い箱にした。それから全くの浪人となって旦《あした》に暮を料《はか》らずという体だったが、奇態に記憶のよい男で、見る見る会話が巧《うま》くなり、古道具屋の賽取《さいと》りしてどうやらこうやら糊口《ここう》し得たところが生来の疳癪《かんしゃく》持ちで、何か思う通りにならぬ時は一夕たちまち数月掛かって儲けた金を討ち死にと称して飲んでしまう。一度ならよいが幾度も幾度も討ち死にをするのでどうしても頭が昂《あが》らず、全く落城し切って大阪の山中氏がロンドンに出している骨董舗《こっとうや》に奉公と極《きま》った時予は帰朝の途に上った故その後どうなったか知らぬ。この人については無類の奇談夥しくなかなか一朝夕に尽されない。就中《なかんずく》、その討ち死にのしようがまた格別の手際《てぎわ》で見聞く呆《あき》れざるはなかった。
さて、予帰朝後この田辺の地に僑居《きょうきょ》し、毎度高橋入道討ち死にの話を面白く語った。その頃大阪堀江に写真を営業する田辺人方へ紀州の人が上るごとに集まり、件《くだん》の話に拠ってこれから討ち死にに出掛けようじゃないかなどいう。それより弘まって紀州人の知った芸妓はもとより、紀の庄店などでも、討ち死にといえば底叩きの大散財と分らぬ者なしと聞いたは早二十年ばかりの昔で、今はどうなったか知らぬ。しかるにその後『改定史籍集覧』二五所収、慶長十八年頃書かれたところといわるる『寒川《さむかわ》入道筆記』を見るに、「とにかくに、右のようなる事どもをきけば気の毒じゃ、聞かぬがよい、かように治まりたる御代には太刀を鞘《さや》に納め弓をば袋に入れて置いても、その身その身の数寄《すき》数寄《すき》に随い日を暮し夜を明かし慰むべき事じゃ、千も万も入らず、当時無敵は若衆様と腎を働かし討ち死にしょう事じゃ、しからざれば若衆の御袋様と(以下欠文)」とあり。思うさま楽しむを討ち死にといったので高橋入道の言と同義だ。しかし入道はこの『記』を読んで後に言い出したのでは決してない。要は期せずして偶合したので、久しい歳月の間に、こんな事は多くあろう(宝永五年板『風流門出加増蔵』(『西鶴置土産』の剽窃物)三ノ二、伊勢町の大盃といえる大尽云々、六十を過ぎて鬢付《びんつけ》嗜《たしな》み女郎と討ち死にと極めて銀使いける云々)。
安永五年板、永井堂|亀友《きゆう》の『世間仲人気質』一に「僕もと京師《けいし》の産、先年他国へ参り夜とともに身の上|咄《ばな》しを致せしが、物語りの続きに、その時は私も、ちゃっちゃむちゃくでござりました、といいたれば、他国人が大いに笑いちゃっちゃむちゃくとは何の事じゃ、そのような詞が京にもあるか、ただしは亀友の一作か、これは可笑《おか》しい、これは珍しやと申して一同一座の興を催しましたが、その国でそれからこの俗言が流行《はや》りますと年始状の尚々書《なおなおが》きに申して上せましたくらい、さて当年で四十九年以前、三月上旬の頃兵庫浦で目の内五尺八寸という鯛がとれて大阪のざこ場《ば》へ出した時、問屋の若い者きおい仲間人これを求め、六人掛かりで料理せしが、中に一人この大鯛のあらの料理を受け取り、頭を切りこなす時、魚のえらを離しさまに手の小指を少し怪我《けが》しけるが痛みは苦にせねど何がな口合《くちあい》がいいたさに南無三《なむさん》、手を鯛のえらでいわしたア痛い、これはえらいたい、さてもえらい鯛じゃといったが、この鯛の大きな評判に連れてこの口合がざこ場中になり、それから大きな物さえ見るとこれはえらい、さてもえらい物じゃといい出して大阪中の噂になり、後《のち》日本国で今はえらいという俗言が一つ出来《しゅったい》せし由、しかれば古き喩えはいずれも故実のある事、今様の俗言も何なりと拠《よりどころ》のある事ならん云々」と見える。この本を出版と同年に書いたと見て繰り合すと安永五年より四十九年前は享保十二年に当る。その年より前に果してえらいてふ語がなかったか知らぬが、魚のえらからエライという形容詞を転成するような事も世間にないと限らず。殊に京の人をまねて田舎にチャッチャムチャクなる語がはやり出したとはありそうな事で、高橋入道の討ち死にがこの辺で大抵の人に通用すると同例だから、俗語の根源と伝播は当身確かな記録があるにあらざれば正しく説き中《あて》る事すこぶる難い。これを強いて解きに掛かるより豕がオルガンを奏すてふ俚語におけるごとく、諸説紛々たるも今に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《およ》んでいずれが正解と判断し能わぬ。
『日本紀』七に日本武尊東征の帰途、毎《つね》に水死した弟橘媛《おとたちばなひめ》を忍びたもう。故に碓氷嶺《うすひね》に登りて東南を望み三たび歎じて吾妻《あずま》はやといった。爾来東国を吾妻の国というと見える。故浜田健次郎氏か宮崎道三郎博士かの説に、韓語で日出をアチムというから推して本邦上古日出をアツマといったと知れる。したがって日出処の意で東国をアツマノクニといった本義は早く忘却され、強いてこれを解かんとて日本武尊の事をこじつけたとあった。『太平記』などに関所として著名な樟葉《くすば》という地あり。『日本紀』五に彦国葺《ひこくにぶく》が武埴安彦《たけはにやすびこ》を射殺した時、賊軍怖れ走って屎《くそ》を褌《はかま》より漏らし甲《よろい》を脱いで逃げたから、甲を脱いだ処を伽和羅《かわら》といい、屎一件の処を屎褌《くそばかま》という。今樟葉というは屎褌の誑《あやま》りだとあり。『播磨風土記』に神功《じんぐう》皇后韓国より還《かえ》り上りたもう時、舂米女《いなつきめ》等のくぼを陪従《おもとびと》婚《くな》ぎ断ちき、故に陰(くぼ)絶ち田と地名を生じたと出るなども同様の故事附けで多くはあてにならぬが、今日の南洋諸島人と斉しくこれらの解説が生じた頃寄ると触ると屎とかくぼとか言うて面白がりいた証拠になる。同書に手苅《てがり》の丘は近国の神ここに到り、手で草を刈って食薦《すこも》と為《な》す故に名づく、一にいわく、韓人ら始めて来りし時鎌を用ゆるを識らず、ただ手を以て稲を刈る故に手刈村というと。ノルトンの豕と等しく早く既に解説が一定せなんだのだ。
内典を閲するに、仏や諸大弟子滅後久しからぬにこんな故事附けが持ち上ったと見え、迦多演那尊者《かたえんなそんじゃ》空に騰《のぼ》って去る時、紺顔童子師の衣角を執って身を懸けて去る。時に人々遥かに見て皆ことごとく濫波底と言う。懸けるという事だ。それより北インドに、濫波という国名が出来たと見ゆ(『根本説一切有部毘奈耶』四六)。今一つ豕に因んだ例を挙げんに、ホーンの『テーブル・ブック』一八六四年版一九〇頁にいわく、数年前エールス人ダヴッド・ロイドが、ヒャーフォードで、六脚ある牝豕をその一膳飯店に飼ったからたまらない。見物かたがた飲食に出掛ける人|引《ひき》も切らずと来た。ところが、ダヴッドの妻、怪しかる飲んだくれでしばしばなぐっても悛《あらた》まる気遣いなし。一日例のごとく聞《きこ》し召し過ぎ、例の打擲《ちょうちゃく》がうるさいから檻《おり》の戸を開けて六脚の豕を出してその跡に治まり返る。折節《おりふし》一群の顧客噂に高い奇畜を見に来り、ダヴッド大恐悦の余り何の気も付かず欄辺に案内し、皆さんこれまでこんな活き物を御覧にならないでしょうというと、かみさんが大の字になってグウグウと高鼾《たかいびき》の体《てい》、観者の内の一百姓「ホンに貴公のこの牝豕ほど酔うたのは生来一度も見ない」といった。それからダヴッドの牝豕ほどずぶ酔いてふ俚言が起ったと。これも何だか跡から牽強《けんきょう》のよう想《おも》わる。
馬琴の『蓑笠両談』二に、丸山応挙に臥猪《ふしい》の画を乞う者あり。応挙いまだ野猪の臥したるを見ず心にこれを想う。矢背《やせ》に老婆あり薪《たきぎ》を負いて毎《つね》に応挙が家に来る。応挙婆に野猪の臥したるを見た事ありやと問うに時折は見るという。重ねて見付けたら速やかに知らせよと頼む。一月ばかりして走り来りわが家の後の竹篁《たかむら》中に野猪臥すと告げた。応挙由って矢背に至り臥猪を写生し、家に帰りて清画しおわった処へ鞍馬《くらま》より老人来る。汝野猪の臥したるを見たるかと問うに毎《つね》に見ると答う。すなわち画を示すを翁熟視してこの画よく出来たが臥猪でなくて病猪だという。応挙驚いてその故を問うに翁曰く、野猪の叢中《そうちゅう》に眠るや毛髪憤起、四足屈蟠、自ずから勢いあり。かつて山中で病猪を見たるに実にこの画のごとしと。応挙初めて暁《さと》り翁に臥猪の形容を詳しく聞き、専らその口伝《くでん》に拠って更に臥猪を画く。四、五日して矢背の老婆来り、怪しむべしかの野猪その翌朝篁中に死んだと告げた。これを聞いていよいよ翁が卓見を感じ、再びその音信を俟《ま》つに十日ばかりして翁また来る。応挙後に出来た図を示すと翁驚歎してこれ真の臥猪なりという。その画もっとも奇絶、今なお京都某家にあり。挙が画に心を用いし事かくのごとし(『嘯風亭話』)。また西定雅の話に、応挙若かりし時野馬、草を食《は》む所を画いた。一翁これは盲馬だと難ず。その訳は馬は草で眼を害せぬように眼を閉じて草を食いに掛かる。この馬は眼を開きながら草を食うから盲目と断じたと。応挙深くその説を感ず。そもそもこの二翁何人ぞ野夫にも功の者ありとはこれらをやいうべきと出づ。千河岸貫一氏の『日本立志編』には、応挙鶏を額に画いて祇園神社に掲げ、毎《つね》に窃《ひそ》かに詣《もう》でて衆評を聞くと、画は巧いがまだ足りぬ処ありと呟《つぶや》いて去る者あり。走り付いてその説を敲《たた》けば多年鶏を畜《か》う人で、われは鶏の羽色が四季に応じて変るを熟知す。この鶏の羽色と側に描いた草花と時節が合わぬと言ったので応挙厚く謝したとあったと覚える。
寛文二年板『為愚痴物語』四に能の太夫鼻金剛という名人、毎に人を観客中に混在せしめ、衆評を聞いた上己れに報ぜしめて難癖を直す。ある時その人々に今日の評はと聞くと今日は誰一人|誉《ほ》めない者はなかったと答う。その内一人いわく、ただ一人能に難なけれど男が少し小さいばかりの難があるといったと。太夫聞いてさては我が能まだ上
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