がね癖なれば直さんとのみ思う。その癖を彫らんとするはもっとも難き事なり、癖を正さんとして自ずから癖の彫られたるはあるべしといいければ、阿波守物の上手その妙《たえ》なるを感じて小柄を彫らすを止めたり」と記す。この阿波守は只今東京で医を開業しいる重次郎君の先祖であろう。予君の父君に久しく止宿して後渡米の時その家から出で立った。父君は京生まれで、笙《しょう》を吹き、碁を囲んで悠々|公卿《くげ》風の人であった。同宿に伊予人井林というありて至極の無法者たり。かつて共立学校で賄《まかな》い征伐のみぎり、予は飯二十六椀、井林も二十一、二平らげ、両人とも胃病で久しく悩んだが、大食の東西関としてロンドンで山座円次郎氏に遇った時もその話が出た。ある夜中井林急に金盥《かなだらい》を敲《たた》き火事と呼んで走り廻ったので樫田氏の家内大騒ぎし、まず重次郎氏当時幼少なるを表|神保町《じんぼうちょう》通りへ立ち退《の》かせたが、一向火の気がないので安心したものの、重次郎氏の母以てのほか立腹して翌朝井林を追い却《かえ》した。去年予寄附金集めに三十六年ぶりで上京した時、井林義兵を挙げて馳け付けたが一文もくれなんだ。
さて、応挙まことに画の妙手で、矢背《やせ》まで出掛ける熱心|熾《さか》んなれど写した所が病猪と気付かず。またよく長常の彫り癖を暗記したがその悪い癖たるを識らず。人智誠に限りありだ。さてこそマケドニアの画聖パムフィロスは、画師は画のほかの一切の智識をも具えにゃならぬと力説した(プリニウス『博物志』三五巻三六章)。ついでにいわく、支那で野猪を画いた古い例は、『晋書《しんじょ》』に、※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]《とう》氏の妻病篤く、医|巫《ふ》手をこまぬき尽しても及ばず、韓支|筮《ぜい》して野猪を画かせ、臥室の屏風《びょうぶ》に貼らしめて※[#「やまいだれ+差」、第4水準2−81−66]《い》えたそうだ。
右のパムフィロスは一タレント以下の謝金では画は教えず。わが二千円ほどだ。かく高値を払うて教えを受けた中にアペルレースはギリシア空前の画聖、その妙技について一、二談を挙げんに、かつて諸画師と競うて馬を画くに、審査員他の輩に依怙《えこ》す。ア画馬は馬に審査せしめよとて、馬数匹を牽《ひ》き来らしめ諸画を示すに、アの画馬を見て始めて鳴いたからアを一等とした。一説にアレキサンダ
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