ー王の像をアが画いたが気に入らず、不出来という。ア、王の愛馬を牽き来るとたちまち王の肖像を見て王と心得|嘶《いなな》いた。ア曰く王よりは馬がよく審査すると。成光が画いた鶏を真の鶏が蹴《け》り、黄筌《こうせん》が画いた雉《きじ》を鷹が打たんとし、曹不与誤って筆を屏風に落し点じたのを蠅に作り直せしを、呉帝|孫権《そんけん》真の蠅と思い指で弾《はじ》きにかかった類話もある(『古今著聞集』一六。『淵鑑類函』三二七)。拙い女絵を見てさえ叛反する人間はもとより、動物を画の審査官にするも当らない事多かろう。蛙など蠅の影を見てしきりに飛び付く。蝶蜂は形を問わず、己《おの》が好む花の色したよい加減な作り物に付き纏う事あり。南米産の猴《さる》に蠅の絵を示すと巧拙構わず抓《つま》みに来るを親しく見た。画が巧みなるにあらず、猴の察しがよいのだ。
 また、アペルレースアレキサンダー王に事《つか》えた時プトレマヨスと快からず。プがエジプトに王たるに及びア航海中暴風に吹かれエジプトに漂到した。アの仇人王の幸臣に頼み王使と詐《いつわ》りアを王の宴に召《まね》かしめた。王|予《かね》て悪《にく》みいた奴が招かざるに推参と聞いて大いに怒り、宮宰をして内官一同を召集せしめ、アをしてアを呼んだ者を指摘せしめんとした。アそれには及ばずとて竈辺《かまどへん》の木炭片を採り、その人の肖顔《にがお》を壁に画く。その画成らざるに早王はその誰たるを認めたという。似た例は東洋にもあり。百済河成宮中である人に従者を呼んでくれと頼んだに顔を見知らずと辞す。すなわち一紙を取り従者の顔を画き示すとその人これを尋ね当てた。支那の戴文進金陵に至るに、荷持ち男、その行李《こうり》を負い去りて見えず。すなわち酒屋で紙筆を借り、その貌《かお》を図し、立ちん坊連に示すと誰某と判り、その者の家に尋ねて行李を得たそうだ(『郷土研究』一巻九号、拙文「今昔物語の研究」)。
 アペルレースの諸画中もっとも讃えられたは嬌女神アフロジテーが海より現じた処で、その髪より搾《しぼ》り落す水滴が銀色の軽羅《けいら》様にその体に掛かる。実に何とも言われぬ妙作だった。コスのアスクレーピオス医聖の廟《びょう》に掲ぐるための作で、百タレンツ今の約二十万円を値《あたい》した。アペルレースの人となり至って温良故、アレキサンダー王の殊寵を得た。王かつて勅して自分の画像をア
前へ 次へ
全45ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング