から近時大奏効し居る指紋法が発達したごとく(この事に関して『ネーチュール』に出した拙文はガルトン始め諸国の学者に毎度引かれ居る)、この吸水力が果して精力を表わすか否を試験した上、いよいよエジプト人のいう通りならば、それより敷衍《ふえん》して婦女精力計という精細な器械を作り出さん事を国家の大事として述べて置く。まだまだ多年の薀蓄《うんちく》、こんな創思はあり余って居るが、愚者道を聞いて大いにこれを笑う世の中、遺憾ながら筆を無駄使いせぬようこれ位でやめる。とにかく今日半開と呼ばるる回教諸国などなかなかえらい発明も多かり、能くその法を採用したら、上る箱根のお関所でちょと捲《まく》るに及ばず、毬《まり》一つ投げ受けしただけで、男女を識別し得たはずだ。
 支那の検屍法などにも西人の想いも付かなんだ事多く、予在欧の昔すら『洗冤録』などを訳させて験し居る者があった。わが邦でも笑うて過さずにその当否を試験せば、近日|聒《やか》ましい父子血合せの法くらいは西人に先鞭を付けられずに済むだろう。たとえば万治二年中川喜雲著『私可多咄《しかたはなし》』五に『棠陰比事』を引いて、呉の張挙|訟《うった》えを聞くに、夫を殺し家を焼き、妾夫火事で焼け死んだという妻の言を夫の親類受け付けず。挙豕を二疋取り寄せ、一を殺し他は生きながら薪を積んで焼いて見れば、殺して焼いたは口中に灰なく、生きながら焼いたのは、灰、口を埋めいた。さて、かの夫の口中を見れば少しも灰なかったから、夫を殺して後《のち》火を掛けたと、豕と比較して見せたので女争わず服罪したとあるごときも、支那人の気の付けようは格別と思われる。応挙が画くごとにその物に経験厚い人の説を聞いたはもっともだ。
 橋本経亮の『橘窓自語《きっそうじご》』に「長常という彫物師は類なき上手なり、円山主水応挙も絵の上手なりしが、智恩院宮諸太夫樫田|阿波守《あわのかみ》という人長常に小柄《こづか》を彫りてよ、応挙の下絵を書かせんと誂《あつら》えければ長常|諾《うべな》いたり。因って阿波守応挙に云々といいければ速やかに下絵を画いて送りしかば、阿波守長常の方に持ち至りて下絵を与えければ、長常この下絵にては得彫らじといいたり。いかなればと阿波守問いければ、これはわれに彫らさんと告げて応挙に下絵を画かせたまいしとみえて、応挙は画の上手なればわが彫るたがね癖を書きたり、常に悪きた
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