ている骨董舗《こっとうや》に奉公と極《きま》った時予は帰朝の途に上った故その後どうなったか知らぬ。この人については無類の奇談夥しくなかなか一朝夕に尽されない。就中《なかんずく》、その討ち死にのしようがまた格別の手際《てぎわ》で見聞く呆《あき》れざるはなかった。
 さて、予帰朝後この田辺の地に僑居《きょうきょ》し、毎度高橋入道討ち死にの話を面白く語った。その頃大阪堀江に写真を営業する田辺人方へ紀州の人が上るごとに集まり、件《くだん》の話に拠ってこれから討ち死にに出掛けようじゃないかなどいう。それより弘まって紀州人の知った芸妓はもとより、紀の庄店などでも、討ち死にといえば底叩きの大散財と分らぬ者なしと聞いたは早二十年ばかりの昔で、今はどうなったか知らぬ。しかるにその後『改定史籍集覧』二五所収、慶長十八年頃書かれたところといわるる『寒川《さむかわ》入道筆記』を見るに、「とにかくに、右のようなる事どもをきけば気の毒じゃ、聞かぬがよい、かように治まりたる御代には太刀を鞘《さや》に納め弓をば袋に入れて置いても、その身その身の数寄《すき》数寄《すき》に随い日を暮し夜を明かし慰むべき事じゃ、千も万も入らず、当時無敵は若衆様と腎を働かし討ち死にしょう事じゃ、しからざれば若衆の御袋様と(以下欠文)」とあり。思うさま楽しむを討ち死にといったので高橋入道の言と同義だ。しかし入道はこの『記』を読んで後に言い出したのでは決してない。要は期せずして偶合したので、久しい歳月の間に、こんな事は多くあろう(宝永五年板『風流門出加増蔵』(『西鶴置土産』の剽窃物)三ノ二、伊勢町の大盃といえる大尽云々、六十を過ぎて鬢付《びんつけ》嗜《たしな》み女郎と討ち死にと極めて銀使いける云々)。
 安永五年板、永井堂|亀友《きゆう》の『世間仲人気質』一に「僕もと京師《けいし》の産、先年他国へ参り夜とともに身の上|咄《ばな》しを致せしが、物語りの続きに、その時は私も、ちゃっちゃむちゃくでござりました、といいたれば、他国人が大いに笑いちゃっちゃむちゃくとは何の事じゃ、そのような詞が京にもあるか、ただしは亀友の一作か、これは可笑《おか》しい、これは珍しやと申して一同一座の興を催しましたが、その国でそれからこの俗言が流行《はや》りますと年始状の尚々書《なおなおが》きに申して上せましたくらい、さて当年で四十九年以前、三月上旬の頃
前へ 次へ
全45ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング