と闘わじという。猪過ぐるを得て虎を顧みて曰く、虎汝四足あり、我また四足あり、汝来って共に闘え、何を以て怖れて走ると。虎答えていわく、汝毛|竪《た》ちて森々《しんしん》たり、諸畜中下極たり、猪汝速やかに去るべし、糞臭堪ゆべからずと。猪自ら誇って曰く、摩竭と鴦の二国、我汝とともに闘うを聞かん、汝来って我と戦え、何を以て怖れて走る。虎答う、身を挙げて毛皆|汚《きたな》し、猪汝が臭我を薫ず、汝闘うて勝ちを求めんと欲せば、我今汝に勝ちを与えんと。これは、鳩摩羅迦葉尊者《くまらかしょうそんじゃ》が無分別な者にかなわぬという譬喩に引いたのだが、とにかく虎も猪の汚臭には閉口すると見える。
 ところが、ロメーンズは、豕の汚臭は本《もと》その好むところにあらず、ただこの物乾熱よりも湿泥を好み、炎天に皮膚の焼かるるを嫌《いと》うて泥に転がる。さればその汚く臭くなるは、豕自身よりは飼い主の過失だと論じある(『動物の智慧』五版、三四〇頁)。これは酒を好む者を咎めずに盃を勧めた人を譴《せ》めるような論で、ラクーンが食物を獲るごとに洗わずんば喫《く》わず、猫が大便を必ず埋めるなどと異なり、豕が湿泥を好むはもっともとしても、本来汚臭を厭わず糞穢を食うというが、既にその大欠点といわざるを得ぬ。南洋タヒチ島原産で今日絶え果てた豕ばかりは、脚と鼻長く、毛羊毛ごとく曲り、耳短く立ちて一汎の豕より体小さく、清潔で汚泥を好まなんだという(エリスの『多島洲探究記』一八二九年版、三四九頁)。豕が泥中に転がる事人に飼われた後始まったのでなく、野猪既に泥中に転がるを好みこれをヌタを打つという。虻《あぶ》蚊を禦《ふせ》ぐため身に泥を塗るのだそうな。ヌタは泥濘の義だ。食物に今日ヌタというも泥に似たからで、本《もと》ヌタナマスといったらしい。『醒睡笑』三に「天に目なしと思い、ヌタナマスを食いぬる処へ旦那来り見付けたれば、ちと物読みたる僧にやありけん、よきみぎりの入堂なるかな、ここに歴劫《りゃくこう》不思議の法味あり、まず天地の間に七十二候とて時の移るに応じ、物の変り行く奇特を申さん。田鼠化して鶉《うずら》となり、雀海中に入って蛤《はまぐり》となり、鳩変じて鷲《わし》となるという事あるが、愚僧が菜《さい》にすわりたるあえもの変じてヌタナマスと眼前になりたる、この奇特を御覧ぜよ」てふ笑譚を出す。『本草啓蒙』四七に「野猪年を経る
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