ものは甚だ大にして牛のごとくなるものあり、甚だしきは背上木を生ずるものあり」。『甲子夜話』五一に、吉宗将軍小金原に狩りして、自ら十文目の鉄砲で五月白と名づけた古猪の頭を搏《う》ち、猪一廻りした処を衆人折り重なって仕留めた。年|歴《へ》た物で鼻|尖《さき》に白毛生じ、背には小木生じて花の白く咲けるよりこの名を負いしという。猪の類はすべて澗泥《かんでい》を以てその背を冷やす。これをニタという。この泥自ずから身毛に留まってこれに木生ぜしなりと。戦士の傷口に詰め込んだ土から麦が生えた話や、繃帯《ほうたい》の上に帽菌が生えた譚もあれば、全く無根でもなかろう。『曾我物語』に、仁田忠常が頼朝の眼前で仕留めた「幾年経るとも知らざる猪がふしくさかく[#「ふしくさかく」に白丸傍点]十六付きたるが」とは誤写で、何とも知れがたいが、多分何かの木が生えていたとあったのかと思う。
 周密の『癸辛雑識』続上に、北方の野猪大なるもの数百斤、最も※[#「けものへん+廣」、第4水準2−80−55]※[#「けものへん+旱」、299−15]《こうかん》にして猟《と》りがたし、毎《つね》に身を以て松樹を摺《す》り脂を取って自ら潤し、しかる後に沙中に臥し沙を膏に附く。これを久しゅうして、その膚堅く厚くて重甲のごとし、帯甲猪と名づく、勁弩《けいど》といえども入る能わず。これを聞きはつっての話か、または事実か、わが邦にも『本草啓蒙』四七に、毎夜野猪往来の道が幽谷に人の通行すべきほど長く続く、これをシシミチという。その路に処々大木の皮摩損するものあり。土地の掘れたる処あり。これ土あるいは木脂を身に摩《す》り傅《つ》けて堅くするなり。『本草集解』に、松脂《まつやに》を掠《かす》め沙泥に曳《ひ》き、身に塗りて以て矢を禦ぐというこれなり。一条兼良《いちじょうかねら》公の『秋の寝覚《ねざめ》』下にも「猪と申す獣は猛なる上に、松の脂もて身を堅め候故矢も立つ事候はぬ由なれば、その心は武士の眼として猪の目すかす事になん」とある。猪の目という事は後に述べよう。支那人は松脂を長寿不死の妙剤とするところから、こんな説も出たであろう(永尾竜造氏の『支那民族誌』上巻一一四頁参照)。
 欧州でも、一七二四年ダブリン版、アーロン・クロッスリーの『紋章用諸物の意義』ちゅう、予未見の書に、野猪は角を具えぬが、獣中最強のものだ。強く鋭くて、能く敵を
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