。鬼、宮に入れば、仏、また還り、入る事三度して四度目に仏出でず、鬼神怒って出でずんば汝の脚を捉え、恒河《ごうが》裏に擲《な》げ込むべしというに、仏いわく、梵天様でも天魔でも我を擲《なげう》つ力はないと。鬼神ちとヘコタレ気味で四つの問いを掛けた。誰か能く駛《はや》い流れを渡る、誰か能く大海を渡る、誰か能く諸苦を捨つる、誰か能く清浄を得るぞと。仏それは御茶の子だ、信能く駛流《しりゅう》を渡り、放逸ならぬ者能く大海を渡り、精進能く苦を抜き、智慧能く清浄を得と答うると、鬼神さもあろう、それもそうよのうと感心して仏弟子となり、手に長者の男児を捉えて仏の鉢中に入れた、曠野鬼神の手から救われ返った故この児を曠野手と名づけ王となる。仏と問答してたちまち悟り、病死して無熱天に生まれた。仏いわく、過去に一城の王好んで肉を食らう。時に王に求むる所ある者、鶏を献じ、王これを厨人《ちゅうじん》に渡し汁に焚《た》かしめた。かの鶏を献じた人、もとより慈心あり、鶏の罪なくして殺さるるを哀しみ、厨人よりこれを償い放ち、この王の悪業願わくは報いを受くるなかれ、我来世厄難に遭《あ》う時、えらい大師が来って救いたまえと念じた。その鶏を献じた者が今の曠野手王に生まれ、昔の願力に由ってこの厄難を免れたと。この話自身は余りゾッとせぬ(『根本説一切有部毘那耶《こんぽんせついっさいうぶびなや》』四七、『雑宝蔵経』七参酌)。明の永楽十五年に成った『神僧伝』九にいわく、嘉《か》州の僧、常羅漢は異人で、好んで人に勧めて羅漢斎を設けしめたからこの名を得、楊氏の婆、鶏を好み食い、幾千万殺したか知れず、死後家人が道士を招いて※[#「酉+焦」、第4水準2−90−41]祭《しょうさい》する所へこの僧来り、婆の子に向い、われ汝のために懺悔してやろうという。楊家甚だ喜び、延《ひ》き入れると、僧その僕に街東第幾家に往って、花雌鶏一隻を買い来らしめ、殺し煮て肉を折《き》り、盤に満て霊前に分置し、その余りを食い、挨拶なしに去った。この夕、鶏を売った家と楊氏とことごとく夢みたは、楊婆来り謝して、存生《ぞんじょう》時の罪業に責められ、鶏と生まれ変り苦しむところを、常羅漢悔謝の賜ものに頼《よ》りて解脱したと言うと、これより郡人仏事をなすごとにこの僧が来れば冥助を得るとしたと。
坊主が自分の好く物を鱈腹《たらふく》頬張って得脱させやったと称えた例は、本邦またこれある。『宇治拾遺』に永超|僧都《そうず》は魚なければ食事せず、在京久しき間魚食わず、弱って南都に下る途上、その弟子魚を乞い得て薦《すす》めた。魚の主、後に鬼がその辺の諸家に印し付くるに我家のみ付けず、鬼に問うとかの僧都に魚を奉った故印し除くというと夢みた。その年この村疫病で人多く死んだが、この家のみ免れ、僧都の許《もと》へ参り告げると被物《かむりもの》一重《ひとかさね》くれたとある。『古今著聞集』に、伊勢の海浜で採れた蛤《はまぐり》を東大寺の上人が買って放ちやると、その夜の夢に蛤多く集まりて、大神宮の前に進《まい》りて得脱するはずだったに、入らぬ世話して苦を重ねしめられたと歎いたと記す。夢に立会人がないからアテにならず、まずは自分が食いたさにこんな事を触れ散らしたのだろう。それよりも豪いのはインドで、女人その身を僧に施すを功徳と信じた。『解脱戒本経』に、もし比丘《びく》、女人の前において自ら身を讃め、姉妹我ら戒を持し善く梵行を修す、まさに婬慾を以て供養すべし、この法は供養最も第一と言わば、僧伽婆《そうがば》尸沙罪《ししゃざい》たりという。その風を伝えたものか、『西域見聞録』五にズルガル部落を記して、〈最も喇嘛《ラマ》を重んず云々、遥かにこれを見ればすなわち冠を免《ぬぎ》て叩著《こうちょ》す、喇嘛手にてその頂を摩し、すなわち勝れてこれを抃舞《べんぶ》す、女を生めば美麗なるを択びてこれを喇嘛に進むるに至る、少婦疾病あるに遇えば、すなわち喇嘛と歇宿《けっしゅく》せんことを求む、年を経《へ》月を累ね、而して父母本夫と忻慰《きんい》す、もしあるいは病危うければ本夫をして領出せしめ、ただその婦の薄福を歎ずるのみ〉。前述一向宗徒が門跡様をありがたがったごとし。ジュボアの『印度の風俗習慣および礼儀』二巻六〇九頁等に、梵士が神の妻にするとて美婦を望むに、親や夫が悦んでこれを奉り、梵士の慰み物としてその寺に納《い》れる由を記す。
男女が逢瀬の短きを恨んで鶏を殺す和漢の例を上に挙げたが、それと打って異《かわ》った理由から鶏を殺す話がイタリアにある。貧しい少女が独り野に遊んで、ラムピオン(ホタルブクロの一種で根が食える)を抜くと、階段が見える。歩み下ると精魅の宮殿に到り、精魅らかの少女を愛する事限りなし。それより母の許へ帰らんと望むに、許され帰る。その後、夜々形は見えずに噪《さわ》ぐ者あるので、母に告げると、蝋燭を点《とも》して見出せという。次の夜、蝋燭点して見ると、玉のごとき美少年胸に鏡を著《つ》けたるが眠り居る。その次の夜もかくして見るとて、誤ってその鏡に蝋を落し、少年たちまち覚めて汝はここを去らざるべからずと歎き叫んだ。少女すなわち去らんとする時、精魅現われて糸の毬《まり》を与え、最も高い山頂に上ってこの毬を下し、小手巻きの延《の》び行く方へ随い行けと教え、その通りにして一城下に達するに、王子失せたという事で城民皆喪服しいた。たまたま母后窓よりこの女を見、呼び入れた。その後この女愛らしい男児を生むと、毎夜靴を作る男ありて「眠れ眠れわが子、汝をわが子と知った日にゃ、汝の母は金の揺籃《ゆりかご》と金の著物《きもの》で汝を大事に育つだろ、眠れ眠れわが子」と唄うた。女、母后に告げたはこの男こそこのほど姿を晦《くら》ましたという王子で、王子に見知られずに日が出るまで王宮に還らぬはずだと、母后すなわち城下の鶏を殺し尽くし、一切の窓を黒|絽《ろ》で覆い、その上に金剛石を散らし掛けしめ、日出るも見知らずまだ夜中と思わせた。かくて王子は少女と婚し、目出たく添い遂げたそうだ。
イタリア人ジォヴァンニ・バッチスタ・バシレの『イル・ペンタメロネ』の四巻一譚に、ミネカニエロ翁雄鶏を飼う。金入用に及び、これを術士二人に売る。彼ら鶏を持ち去るとて、この鶏の体内に石あり。それを指環に嵌《は》めて佩《お》ぶれば、欲しいと思う物ことごとく得べしと語る。ミネカニエロこれを聞いてその鶏を盗み、殺して石を取り、青年に若返り、金銀荘厳の宮殿に住む。術士化け来って、その指環を衒《かた》り取ると、ミネカニエロまた老人となり、指環を取り戻さんと鼠が住む深穴国に至る。鼠ども術士の指を咬《か》んで環をミ翁に復《かえ》す。ミ翁また若返り、二術士を二|驢《ろ》に化し、自らその一に騎《の》り、後《のち》山より投下す。今一の驢に豕脂《しし》を負わせ、報酬として鼠どもに贈るとある。鶏石(ラテン名ラピルス・アレクトリウス)は鶏の体内にある小石で、豆ほど大きく、水晶の質でこれを佩ぶれば姙婦に宜《よろ》しく、また人をして勇ならしむ。クロトナのミロンは鶏石のおかげで大勇士となった由。一六四八年ボノニア板、アルドロヴァンズスの『ムセウム・メタリクム』四巻五八章に、この石の記載あるが諸説一定せず、蚕豆《そらまめ》状とも三角形ともいう。佩ぶれば姙婦に宜しという石どもについては、余未刊の著『燕石考』に詳述したが、その一部分を「孕石《はらみいし》の事」と題して出し置いた。
欧州で中古盛んに読まれた教訓書『ゲスタ・ロマノルム』一三九譚に、アレキサンダー王大軍を率いある城を囲むに、将士多く創《きず》を蒙《こうむ》らずに死す。王怪しんで学者を集め問うに、皆いわく、これ驚くに足らず。この城壁上に一のバシリスクあり、この物|睨《にら》めば疫毒あって兵士を殺すと答う。王どうしてこれを防ぐべきと尋ねると、王の軍勢と彼の居る壁との間の高い所に鏡を立てよ。バシリスクの眼力鏡より反射して彼自身を殺すはずという。由ってかくしてこれを平らげたと見ゆ。バシリスク一名コッカトリセは、蛇また蟾蜍《ひき》が雄鶏が産んだ卵を伏せ孵《かえ》して生じ、蛇形で翼と脚あり、鶏冠を戴《いただ》くとも、八足または十二足を具え、鈎《かぎ》ごとく曲った嘴《くちばし》ありとも、また単に白点を頂にせる蛇王だともいう。雄鶏が卵を生む例はたまたまあって余も一つ持ち居る。つまり蛇や蟾蜍の毒気を雄鶏の生んだ卵が感受して、この大毒物を成すと信じたので、やや似た例は支那説に雉と蛇が交わりて蜃《おおはまぐり》を生む。蛇に似て大きく、腰以下の鱗《うろこ》ことごとく逆生す。能く気を吐いて楼台を成す。高鳥、飛び疲れ、就《つ》いて息《やす》みに来るを吸い食う。いわゆる蜃楼《しんろう》だという。一説に正月に、蛇、雉と交わり生んだ卵が雷に逢うと、数丈深く土に入って蛇形となり、二、三百年経て能く飛び昇る。卵、土に入らずば、ただ雉となると(『淵鑑類函』四三八、『本草綱目』四三)、サー・トマス・ブラウン説に、古エジプトの俗信に、桃花鳥《とき》は蛇を常食とするため、時々卵に異状を起し、蛇状の子を生む。因って土人は力《つと》めてその卵を破り、また卵を伏せるを許さずと。ヒエロム尊者説に、これは古エジプト人が崇拝した桃花鳥でなく、やや悪性の黒桃花鳥だと。
さて、バシリスクが諸動物および人を睨めば、その毒に中って死せざる者なく、諸植物もことごとく凋《しぼ》み枯る。ただ雄鶏を畏《おそ》れその声を聞けば、たちまち死す。故にこの物棲むてふ地を旅する者、必ず雄鶏を携えた。鼬《いたち》と芸香《るうだ》もまたその害を受けず。鼬これと闘うて咬まれたら芸香を以てその毒を治し、また闘うてこれを殪《たお》す。古人これを猟《と》った唯一の法は、毎人鏡を持ちて立ち向うに、バシリスクの眼毒が鏡のためにその身に返り、自業自得でやにわに斃《たお》れたのだ。一説にこの物まず人を睨めば、人死すれど、人がまずこの物を見れば害を受けずと。さればドライデンの詩にも「禍難はコッカトリセの眼に異ならず、禍難まず見れば人死に、人まず見れば禍難亡ぶ」とよんだ(ブラウンの『俗説弁惑』ボーンス文庫本一巻七章および註。『大英百科全書』十一板六巻六二二頁。ハズリット『諸信および俚俗』一巻一三二頁)。一八七〇年板、スコッファーンの、『科学俚伝落葉集』三四二頁已下に、バシリスク譚は随分古く、『聖書』既にその前を記し、ギリシア・ローマの人々はこれを蛇中の王で、一たび嘯《うそぶ》けば諸蛇|這《は》い去るというた。中世に及んで多少鶏に似たものとなりしが、なお蛇王の質を失わで冠を戴くとされた。最後には劇毒ある蟾蜍《ひき》の一種と変った。初めはアフリカの炎天下に棲《す》んで他の諸動物を睨み殺し、淋しき沙漠を独占すといわれたが、後には、井や、鉱穴や、墓下におり、たまたま入り来る人畜を睨み殪すと信ぜられた。すべて人間は全くの啌《うそ》はなく、インドのモンネース獣は帽蛇《コブラ》と闘うに、ある草を以てその毒を制し、これを殺すという。それから鼬が芸香《るうだ》を以てバシリスクを平らげるといい出したのだ。また深い穴に毎《いつ》も毒ガス充《み》ちいて入り来る人を殺す。それを不思議がる余り、バシリスクの所為と信じたのだと説いたは道理ありというべし。一八六五年板、シーフィールドの『夢の文献および奇事』二巻附録夢占字典にいわく、女がバシリスクを産むと男が夢みればその男に不吉だが、女がかかる夢を見れば大吉で、その女富み栄え衆人に愛され為《な》すところ成就せざるなしと。
十六世紀のバイエルン人、ウルリッヒ・シュミットの『ラプラタ征服記』のドミンゲズの英訳四三頁に当時のドイツ人信じたは、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《わに》の息《いき》人に掛かれば人必ず死す。また、※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]、井中にあるを殺すには、鏡を示して自らその顔の獰悪《どうあく》なるに懼《おそ》れ死にせしむるほかの手なしと。されど我自ら三千以上の※[#「魚+王の中
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