鳥はものかは」「何処《いずこ》にも飽かぬは鰈《かれい》の膾《なます》にて」「これなる皿は誉《ほ》める人なし」とは面白く作ったものだ。※[#「广+諛のつくり」、第3水準1−84−13]肩吾《ゆけんご》の冬暁の詩に、〈隣鶏の声すでに伝わり、愁人ついに眠らず〉。楊用脩の継室黄氏夫に寄する詩に、〈相聞空しく刀環の約あり、何《いつ》の日か金鶏夜郎に下らん〉、李廓の鶏鳴曲に、〈星稀に月没して五更に入る、膠々《こうこう》角々鶏初めて鳴く、征人馬を牽いて出でて門立つ、妾を辞して安西に向いて行かんと欲す、再び鳴きて頸を引く簷頭《えんとう》の下、月中の角声馬に上るを催す、わずかに地色を分ち第三鳴、旌旆《せいはい》紅塵《こうじん》すでに城を出《い》づ、婦人城に上りて乱に手を招く、夫婿聞かず遥かに哭する声、長く恨む鶏鳴別時の苦、遣らず鶏棲窓戸に近きを〉。支那にも鶏に寄せて閨情を叙《の》べたのが少なくない。余一切経を通覧せしも、男女が鶏のつれなさを恨んだインドの記事を一つも見なんだ。欧州にも少ないらしい。日本に至っては逢うて別るる記述|毎《つね》に鶏が引き合いに出る。『男色大鑑』八に芝居若衆峰の小曝《こざら》し闘鶏を「三十七羽すぐりてこれを庭籠《にわこ》に入れさせ、天晴《あっぱれ》、この鶏に勝《まさ》りしはあらじと自慢の夕より、憎からぬ人の尋ねたまい、いつよりはしめやかに床の内の首尾気遣いしたまい、明方より前に八《やつ》の鐘ならば夢を惜しまじ、知らせよなど勝手の者に仰せつけるに、勤めながら誠を語る夜は明けやすく、長蝋燭の立つ事はやく、鐘の撞《つ》き出し気の毒、太夫余の事に紛らわせども、大臣《おとど》耳を澄まし、八つ九つの争い、形付かぬ内に三十七羽の大鶏、声々に響き渡れば、申さぬ事かと起ち別れて客は不断の忍び駕籠《かご》を急がせける、名残《なごり》を惜しむに是非もなく、涙に明くるを俟《ま》ちかね、己《おの》れら恋の邪魔をなすは由なしとて、一羽も残さず追い払いぬ。これなどは更にわけの若衆の思い入れにはあらず、情を懸けし甲斐こそあれ」とは、西洋で石田を耕すに比べられ、『四季物語』に「妹脊《いもせ》の道は云々、この一つのほかの色はただ盛りも久しからず、契りの深かるべくもあらぬ事なるを、いい知らずもすける愛なき云々、幼き心つからは何かは思わん。互いに色に染み、情にめでてこそこの道迷いは重くも深くもあるべし。ただ何となき児姿《ちごすがた》をこそいえ心はただなおにこそ思わめ」と譏《そし》られた男子同性愛も、事|昂《こう》ずればいわゆるわけの若衆さえ、婦女同然の情緒を発揮して、別れを恨んで多数高価の鶏を放つに至ったのだ。わが国でこの類の最も古いらしい伝説は、神代に事代主命《ことしろぬしのみこと》小舟で毎夜|中海《なかうみ》を渡り、楫屋《いや》村なる美保津姫《みほつひめ》に通うに、鶏が暁を告ぐるを聞いて帰られた。一夜、鶏が誤って夜半に鳴き、命《みこと》、周章舟を出したが櫓《ろ》を置き忘れ、拠《よんどころ》なく手で水を掻いて帰る内、鰐《わに》に手を噬《か》まれた。因って命と姫を祀《まつ》れる出雲の美保姫社辺で鶏を飼わず。参詣者は鶏卵を食えば罰が中《あた》るとて食わぬ(『郷土研究』一巻二号、清水兵三氏報)。
『秋斎間語』二に「尾州一の宮の神主《かんぬし》、代々鶏卵を食せず云々、素戔嗚尊《すさのおのみこと》の烏の字を鳥に書きたる本を見しよりなり。熱田には筍《たけのこ》を食わず、日本武尊《やまとたけるのみこと》にて座《ましま》す故となん云々。さいえば天下の神人はすべて紙は穢れたる事に使うまじきや。また、津島の神主氷室氏、絵《えが》くに膠《にかわ》の入りたる墨を使わず、筆の毛は忌まざるにや」。もっともな言い分ながら鶏卵を食わぬには古く理由があっただろう。鶏がきぬぎぬの別れを急がして悪《にく》まるるほかに、早く鳴いて、鬼神や人の作業を中止せしめた多くの噺《はなし》は別に出し置いたから御覧下さい。
 仏経に見る鶏の輪廻譚《りんねばなし》を少し出そう。仏が王舎城にあった時、南方の壮士、力|千夫《せんぷ》に敵するあって、この城に来るを影勝王が大将とす。五百賊を討つに独り進んで戦い百人を射、余りの四百人に向い、汝ら前《すす》んで無駄死にをするな、傷ついた者の矢を抜いて死ぬるか生きるかを見よと言うた。諸賊射られた輩の矢を抜くと皆死んだので、かかる弓術の達者にとても叶わぬと暁《さと》り、一同降参した。大将これを愍《あわれ》み、そこに新城を築き諸人を集め住ませ曠野城と名づけた。城民規則を設け、婚礼の度《たび》ごとにこの大将を馳走し、次に自分ら飲宴するとした。時に極めて貧しい者あって、妻を娶るに大将を招待すべき資力なし。種々思案の末、酒肴の代りにわがいまだ触れざる新妻を大将の御慰みに供え、その後始めて自宅へ引き取った。爾後、恒例となって諸人妻を迎うるごとに大将に手折《たお》らせたとあるが、これは事の起源を説かんためかかる噺をこじ付けたので、拙文「千人切りの話」に論じた通り、一八八一年フライブルヒ・イム・ブライスガウ板、カール・シュミット著『初婚夜権』等を参するに、インド、クルジスタン、アンダマン島、カンボジヤ、チャンパ、マラッカ、マリヤナ島、アフリカおよび南北米のある部に、もとよりかかる風習があったので、インドで西暦紀元頃ヴァチヤ梵士作『愛天経』七篇二章は全く王者が臣民の妻娘を懐柔する方法を説く。その末段にいわく、アンドラの王は臣民の新婦を最初に賞翫《しょうがん》する権利あり。ヴァツアグルマ民の俗、大臣の妻、夜間、王に奉仕す。ヴァイダルブハ民は王に忠誠を表せんとて一月間その子婦を王の閨房に納《い》る。スラシュトラ民の妻は王の御意に随い、独りまた伴うてその内宮に詣《いた》るを常とすと。欧州には古ローマの諸帝、わが国の師直《もろなお》、秀吉と同じく(『塵塚物語』五、『常山紀談』細川|忠興《ただおき》妻義死の条、山路愛山の『後編豊太閤』二九一頁参照)、毎度臣下の妻を招きてこれを濫したというから、中にはアンドラ王同様の事を行うたも少なからじ。降《くだ》って中世紀に及び、諸国の王侯に処女権あり。人が新婦を迎うれば初めの一夜、また数夜、その領主に侍《はべ》らしめねば夫の手に入らぬのだ。例せばスコットランドでは十一世紀に、マルコルム三世、この風を発せしが、仏国などでは股権とて十七世紀まで幾分存した。この名は君主が長靴|穿《うが》った一脚を新婦の臥牀《ねどこ》に入れ、手鎗を以て疲るるまで坐り込み、君主去るまで夫が新婦の寝室に入り得なんだから出た。夫この恥を免れんため税を払い、あるいは傭役《ようえき》に出で、甚だしきは暴動を起し、稀には「義経は母を」何とかの唄通りで特種の返報をした。仏国ブリヴ邑《むら》の若侍、その領主が自分の新婦に処女権を行うに乗じて、自らまた領主の艶妻を訪い、通夜してこれに領主の体格不似合の大男児を産ませた椿事《ちんじ》あり。かかる事よりこの弊風ついに亡びた(一八一九年板コラン・ド・ブランシーの『封建事彙』一巻一七三頁)。仏国アミアンの僧正は領内の新婦にこの事を行うを例としたが、新夫どもの苦情しきりなるより、十五世紀の初めに廃止したというに、尾佐竹猛《おさたけたけき》君の来示に、今もメキシコで僧がこの権を振う所ある由。『大英百科全書』十一板、十五巻五九三頁に、紀元三九八年カルタゴの耶蘇徒に新婚の夜、かの事を差し控えよと制したが後には三夜まで引き伸ばした。さて、欧州封建時代の領主は臣下の婚礼に罰金を課したから、この二事を混じて中古処女権てふ制法が定まりいたと信ずるに至ったのだとある。しかし上述通り欧州外にもこの風行われた地多ければ、制法として定まりおらずとも、暴力これ貴んだ中古の初め、欧州にこの風行われたは疑いを容《い》れず。『後漢書』南蛮伝に交趾の西に人を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《くら》う国あり云々、妻を娶って美なる時はその兄に譲る。今|烏滸《おこ》人これなり。阿呆を烏滸という起りとか。明和八年板、増舎大梁の『当世傾城気質』四に、藤屋伊左衛門諸国で見た奇俗を述べる内に「振舞膳《ふるまいぜん》の後《のち》我女房を客人と云々」これらは新婦と限らぬようだが、余ら幼き頃まで紀州の一向宗の有難屋《ありがたや》連、厚く財を献じてお抱寝《だきね》と称し、門跡の寝室近く妙齢の生娘《きむすめ》を臥せさせもらい、以て光彩|門戸《もんこ》に生ずと大悦びした。また、勝浦港では年頃に及んだ処女を老爺に托して破素してもらい、米、酒、および桃紅色の褌《ふんどし》を礼に遣わした。『中陵漫録』十一にいわく、羽州米沢の荻村では媒人が女の方に行きてその女を受け取り、わが家に置く事三夜にして、餅を円く作って百八個、媒が負うて女を連れ往き婚礼を調《ととの》うと。ローマの議院でシーザーに一切ローマ婦人と親しむ権力を附くべきや否やを真面目《まじめ》に論じた例あり。スコットランドでは中古牛を以て処女権を償うに、女の門地の高下に従うて相場異なり、民の娘は二牛、士の娘は三牛、太夫の娘は十二牛などだ。イングランドはこれに異なり民の娘のみこの恥を受けた(ブラットンの『ノート・ブック』巻二六)。藤沢君の『伝説』信濃巻に百姓の貢米《ぐまい》を責められて果す事が出来ないと、領主は百姓の家族の内より、妻なり、娘なりかまわず、貢米賃というて連れ来って慰んだ由見える。これも苛税をはたす奇抜な法じゃ。
 処女権の話に夢中になってツイ失礼しました。さて、曠野城の大将の恒例として、城内の人が新婦を娶るごとに処女権を振り廻す。ある時一女子あって人に嫁せんとするに臨み、そもそもこの城の人々こそ怪《け》しからね、自分妻を迎うるとてはまず他人の自由にせしむ、何とかしてこの事を絶ちたいと左思右考の末、白昼衆人中に裸で立ち小便した。立ち小便については別に諸方の例を挙げ置いたが(立小便と蹲踞《そんこ》小便)、その後見出でたは、慶安元年板『千句独吟之俳諧』に「佐保姫ごぜや前すゑて立つ」、「余寒にはしばしはしゝを怺《こら》へかね」、まずこれが日本で女人立ち尿《いばり》の最古の文献だ。ずっと前に源|俊頼《としより》の『散木奇歌集《さんぼくきかしゅう》』九に、内わたりに夜更けてあるきけるに、形《かたち》よしといわれける人の打ち解けてしとしけるを聞きて咳《しわぶ》きをしたりければ恥じて入りにけり、またの日遣わしける「形こそ人にすぐれめ何となくしとする事もをかしかりけり」。打ち解けて人に聞かるるほど垂れ流したのだから、これは宮女立ち小便の証拠らしくもある。それはさて置き、曠野城の嫁入り前の女子が昼間|稠人《ちゅうじん》中で裸で立ち尿をした空前の手際に、仰天して一同これを咎《とが》めると、女平気で答うらく、この国民はすべて意気地なしで女同然だ。而して将軍独りが男子で婚前の諸女を弄《もてあそ》ぶ。われら女人は将軍の前でこそ裸で小便がなるものか、だが汝ら女同前の輩の前で立ち小便しても何の恥かあるべきと。衆人これを聴いて大いに慙《は》じ入り、会飲の後《のち》将軍を取り囲みその舎を焼かんとす。いわく婦女嫁入り前に必ずすべて汝に辱しめらるるはどうも堪忍《かんにん》ならぬ故、汝を焼き殺すべしと。将軍それは無体だ、我辞退したのを汝ら強いて勧めたではないかと、諸人聴き入れず何に致せ焼けて焼けて辛抱が仕切れぬからという事で焼き殺ししまった。ところがこの将軍殺さるる三日前に、仏の大弟子|目連《もくれん》と、舎利弗《しゃりほつ》、およびその五百弟子を供養した功徳で大力鬼神となり、大疫気を放ち無数の人を殺す。城民弱り入り、林中に行きて懺謝し、毎日一人を送って彼に食わせる事に定め、一同|鬮引《くじびき》して当った者の門上に標札を掲げ、家主も男女も中《あた》ったら最後食われに往かしめた。かく次第してついに須抜陀羅長者《すばつだらちょうじゃ》の男児が食わるる番に中った。長者何とも情けない。如来《にょらい》我子を救えと念ずると、仏すなわち来て鬼神殿中に坐った。鬼神、仏に去れというと仏出で去る
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