十二支考
鶏に関する伝説
南方熊楠

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)宗懍《そうりん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)土気|上升《じょうしょう》し

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(例)※[#「員+力」、第3水準1−14−71]

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(例)朝な/\
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 晋の宗懍《そうりん》の『荊楚歳時記《けいそさいじき》』註に魏の董※[#「員+力」、第3水準1−14−71]《とうくん》の『問礼俗』に曰く、正月一日を鶏と為《な》し、二日を狗《いぬ》と為し、三日を羊、四日を猪《い》、五日を牛、六日を馬、七日を人と為す。正旦鶏を門に画《えが》き、七日人を帳に帖《ちょう》す、今一日鶏を殺さず、二日狗を殺さず、三日は羊、四日は猪、五日は牛、六日は馬を殺さず、七日刑を行わず(人を殺さず)またこの義なり云々。旧《ふる》く正旦より七日に至る間鶏を食うを忌む。故に歳首ただ新菜を食い、二日人鶏に福施すとありて、正月二日の御祝儀として特に人と鶏に御馳走をしたのだ。『淵鑑類函』一七に『宋書』に曰く、歳朔《さいさく》、常に葦莢《いきょう》、桃梗《とうこう》を設け、鶏を宮および百司の門に磔《たく》し以て悪気を禳《はら》う。『襄元新語』に曰く、正朝に、県官、羊を殺してその頭を門に懸け、また鶏を磔してこれに副《そ》う。俗説以て※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]気《れいき》を厭《よう》すと為《な》す。元以て河南の伏君に問う、伏君曰く、これ土気|上升《じょうしょう》し、草木|萌動《ぼうどう》す。羊、百草を齧《か》み、鶏五穀を啄《ついば》む。故にこれを殺して以て生気を助くと。元旦から草木が生え出すを羊と鶏が食い荒すから、これを殺して植物の発芽を助くというのだ。『琅邪《ろうや》代酔編』二に拠れば、董※[#「員+力」、第3水準1−14−71]の元日を鶏、二日を猪などとなす説は、漢の東方朔《とうぼうさく》の『占年書』に基づいたので、その日晴れればその物育ち、陰《くも》れば災《わざわ》いありとした。例せば元日晴れれば鶏がよく育ち、二日曇れば豚が育たぬなどだ。さて正月八日は穀の日で、この日の晴曇でその年の豊凶が知れるという説もあったそうだ。宋の※[#「广+龍」、第3水準1−94−86]元英《ほうげんえい》の『談藪』には道家言う、鶏犬を先にして人を後にするは、賤者は生じやすく貴者は育しがたければなりとある。漢の応劭の『風俗通』八を見ると〈※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]平《とうへい》説、臘は刑を迎え徳を送る所以《ゆえん》なり、大寒至れば、常に陰勝つを恐る、故に戌《じゅつ》日を以て臘す、戌は温気なり、その気の日を用いて鶏を殺し以て刑徳を謝す、雄は門に著け雌は戸に著け、以て陰陽を和し、寒を調え水に配し、風雨を節するなり、青史子の書説、鶏は東方の牲なり、歳終り更始し、東作を弁秩す、万物戸に触れて出《い》づ、故に鶏を以て祀祭するなり〉と載せ、〈また俗説、鶏鳴まさに旦せんとす、人の起居を為す、門もまた昏に閉じ晨に開き、難を扞《ふせ》ぎ固を守る、礼は功に報るを貴ぶ、故に門戸に鶏を用うるなり〉。これは鶏は朝早く鳴いて人を起し門戸を守る大功あれば、その報酬として鶏を殺し門戸に懸くるというので、鶏に取っては誠に迷惑な俗説じゃ。蔡※[#「巛/邑」、第3水準1−92−59]《さいよう》の『独断』に、臘は歳終の大祭、吏民を縦《はな》って宴飲せしむ。正月歳首また臘の儀のごとしとある。件《くだん》の『風俗通』に出た諸説を攷《かんが》えると、どうも最初十二月の臘の祭りの節、鶏を殺して門戸に懸けたのが後に元日の式となった事、ちょうど欧州諸国で新年の旧式が多くクリスマスへ繰り上げられたごとし。しかるに〈古はすなわち鶏を磔す、今はすなわち殺さず、また、正月一日、鶏鳴きて起き、まず庭前において爆竹し、以て山※[#「月+操のつくり」、第3水準1−90−53]《さんそう》悪鬼を辟《さ》く云々。画鶏を戸上に帖し、葦索をその上に懸け、桃符《とうふ》をその傍に挿む、百鬼これを畏る〉と『荊楚歳時記』に載せ、註に董※[#「員+力」、第3水準1−14−71]いわく、今正臘の旦《あした》、門前、烟火桃神を作《な》し、松柏を絞索し、鶏を殺して門戸に著け、疫を追うは礼なり。『括地図』にいわく、桃都山に大桃樹あり、盤屈三千里、上に金鶏あり、日照らせばすなわち鳴く。下に二神あり、一を鬱《うつ》、一を塁《るい》と名づく、並びに葦の索《さく》を執って不祥の鬼《き》を伺い、得ればすなわちこれを殺すと。『風俗通』八に黄帝書を引いていわく、上古の時、荼《と》と鬱てふ昆弟《こんてい》二人、能く鬼を執らう。度朔山上の章桃樹下に百鬼を簡閲し、道理なく妄《みだ》りに人の禍害を為《な》す鬼を、荼と鬱と、葦縄で縛りて虎に食わす。故に県官常に臘|除夕《じょせき》を以て桃人を飾り、葦索を垂《た》れ、虎を門に画くとあり。桃人は『戦国策』に見える桃梗で、〈梗は更なり、歳終更始す、介祉を受くるなり〉とあれば、年末ごとに改めて新しいのを門に懸けた桃木製の人形らしく、後には単に人形を画いて桃符《とうふ》といったらしい。和漢その他に桃を鬼が怖るるてふ俗信については『日本及日本人』七七七号九一頁に述べ置いた。
 そこに書き洩らしたが加藤雀庵の『囀《さえず》り草』の虫の夢の巻に、千住の飛鳥《あすか》の社頭で毎年四月八日に疫癘《えきれい》を禳《はら》う符というを出すに、桃の木で作れり、支那に倣《なろ》うたのだろうとある。『本草図譜』五九に田村氏(元雄か)説とて、日本で桃で戸守り符を作る事なき由を言えるも例外はあったのだ。さて桃木製の人形が人を画いた桃符に代ったと斉《ひと》しく、鶏を磔に懸けたのが戸上に画鶏を貼り付けるに変わったのじゃ。何のために鶏を殺したかは、後に論ずるとして、鶏に縁厚い酉歳の書き始めに昔の支那人は元日に鶏を磔《はりつけ》にしたという事を述べ置く。
 それから『荊楚歳時記』から引いた元旦の式を述べた上文、〈以て山※[#「月+操のつくり」、第3水準1−90−53]悪鬼を辟く〉の次に、〈長幼ことごとく衣冠を正し、次を以て拝賀し、椒柏《しょうはく》酒を進め、桃湯を飲み屠蘇《とそ》を進む云々、各一鶏子を進む〉とあって、註に『周処風土記』に曰く、正旦まさに生ながら鶏子一枚を呑むべし、これを錬形というとある。鶏卵を呑んで新年の身体を固めたのだ。それから『煉化篇』を案ずるにいわく、正旦鶏子赤豆七枚を呑み瘟気《おんき》を辟くとあるが、鶏卵七つも呑んでは礼廻りの途上で立ちすくみになり、二日のひめ始めが極めて待ち遠だろうから直ちに改造と出掛けたものか、『肘後方《ちゅうごほう》』には元旦および七日に、麻子、小豆、各十四枚を呑めば疾疫を消すとあって、卵は抜きとされおり、梁の武帝、厳に動物食を制してより、元旦に鶏卵を食うは全廃となったとある。
 鶏卵をめでたい物とする事西洋にも多い。グベルナチス伯の『動物譚原』二巻二九一頁にいわく、鶏卵天にありては太陽を表わす。白い牝鶏は金の雛《ひな》を産むとて特に尊ばる。イタリアのモンフェラトではキリスト昇天日に新しい巣で生まれた卵は胃と頭と耳の痛みを治し、麦畑に持ち往けば麦奴の侵害を予防し、葡萄《ぶどう》園に持ち往けばその葡萄が霰《あられ》に損ぜずと信ぜらる。復活祭の節、キリスト教徒が鶏卵を食い相|贈遺《ぞうい》するに付いて、諸他の習俗、歌唄、諺話、欧州に多いが、要するに天の卵より雛の生まれ出るにキリストの復活を比べ、兼ねて春日の優に到ると作物の豊饒を祝うたのだ。古ギリシアやインドの創世紀は金の卵に始まり、世界は金の卵より動き始め、動くは善の原則たり、光明あり労働し利世する日は金の卵に生ず、故に一日の始めに卵を食うは吉相で、ラテン語の諺《ことわざ》にアブ・オヴォ・アド・マルム(善より悪へ)というはもと卵より林檎《りんご》への義だ。古ラテン人は食事の初めに煮固めた卵、さてしまいに林檎を食ったので、今もイタリアにその通り行う家族多し、また古ギリシアの諺にエキス・オウ・エキセルテン、卵より生まるというは絶世の美人を指したので、その由来は、大神ゼウスがスパルタ王ツンダレオスの妻レーダに懸想し、天鵞に化けてこれを孕《はら》ませ二卵を産んだ。その一つから艶色無類でトロイ戦争の基因たるヘレネー女、今一つから、カストルとポルクスてふ双生児が生まれたからだとあるが、天鵞形の神に孕まされて生んだ卵は天鵞卵で鶏卵でなかろう。何に致せグベルナチス伯の言のごとく、世界は金の卵から動き始める理窟だから、金の卵の噺《はなし》から書き始めようとしても、幾久しく聞き馴れた月並の御伽噺《おとぎばなし》にありふれた事では面白からず、因って絶体絶命、金の卵の代りにキンダマ譚《ばなし》からやり始める。
 けだし金の卵とキンダマ、国音相近きを以てなるのみならず、梵語でもアンダなる一語は卵をも睾丸をも意味するからだ。支那でも明の劉若愚の『四朝宮史酌中志』一九に内臣が好んで不腆《ふてん》の物を食うを序して、〈また羊白腰とはすなわち外腎卵なり、白牡馬の卵に至りてもっとも珍奇と為す、竜卵という〉。『笑林広記』に孕んだ子の男女いずれと卜者に問うに、〈卜し訖《おわ》りて手を拱いて曰く、恭喜すこれ個の卵を夾《はさ》むもの、その人甚だ喜び、いわく男子たること疑いなし、産するに及びてかえってこれ一女なり、因って往きてこれを咎む、卜者曰く、これ男に卵あり、これ女これを夾む、卵を夾む物あるは女子にあらずして何ぞ〉。睾丸を卵と呼んだのだ。グベルナチス伯曰く、古ローマ人の迷信に牝鶏が卵を伏せ居る最中に雷鳴すれば、その卵敗れて孵《かえ》らずと、プリニウス説にこれを防ぐには卵の下草の下に鉄釘一本、または犁《すき》のサキで済《すく》い揚《あ》げた土を置けば敗《やぶ》れずと、コルメラは月桂の小枝とニンニクの根と鉄釘を置けと言った。これ電を鉄製の武器とし、また落雷の際、硫黄の臭あるより、似た物は似た物で防ぐてふ考えから、釘と硫黄に似た臭ある枝や根で防ぎ得としたのだ。今もシシリーでは牝鶏が卵を伏せ居る巣の底へ釘一本置きて、未生の雛に害あるすべての騒々しい音を、釘が呼び集め吸収すると信ず。さて珍な事はインドの『委陀《ヴェーダ》』に雷神|帝釈《たいしゃく》を祈る偈《げ》あり「帝釈よ、我輩を害するなかれ、我輩を壊《やぶ》るなかれ、我輩の愛好する歓楽を取り去るなかれ、ああ大神よ、ああ強き神よ、我輩のアンダ(睾丸または卵)を潰すなかれ、我輩腹中の果を破るなかれ」と。これは帝釈は自分去勢されたが(帝釈雄鶏に化けて瞿曇《くどん》仙人の不在に乗じ、その妻アハリアに通じ、仙人|詛《のろ》うてその勢を去った譚は前(別項猴の話)に出した)、雷、震して人を去勢し能うとインド人は信じたのだと。わが邦でも落雷などで極めて驚くと睾丸釣り上がると言うが、インドでは釣り上がるどころか天上して失せおわるとしたのだ。件《くだん》の偈は牝鶏が卵を雷に破らるるを惧《おそ》れて唱うるようにも、男子が雷に睾丸を天まで釣り上げらるるを憂いてのようにも聞える。実に人間に取ってこれほど大事の物なく、一七〇七年にオランダで出版したシャール・アンションの『閹人論《えんじんろん》』はジュール・ゲイの大著『恋愛婦女婚姻書籍目録』巻三に出るが、余が大英博物館で読んだアンションの『閹人顕正論』は一七一八年ロンドン刊行で、よほど稀覯《きこう》の物と見え、右の目録にも見えぬ。因って全部二百六十四頁を手ずから写し只今眼前にある。これはオランダ板の英訳かまたまるで別書か目下英仏の博識連へ問い合せ中だ。十八世紀の始め頃欧州で虚栄に満ちた若い婦女が力なき老衰人に嫁する事|荐《しき》りなりしを慨し、閹人の種類
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