をことごとく挙げて、陽精|涸渇《こかつ》した男に嫁するは閹人の妻たるに等しく何の楽しみもなければ、それより生ずる道徳の頽敗寒心すべきもの多しとて、広く娶《よめ》入り盛りの女や、その両親に諭《さと》した親切至れる訓誡の書だ。著者アンションは宗教上の意地より生国フランスからドイツへ脱走し、プロシャで重用され教育上の功大いに、また碩儒ライブニツと協力してベルリン学士会院を創立した偉人で、その玄孫ヨハン・アンションも史家兼政治家として人物だった。その『閹人顕正論』の四二頁|已下《いか》にいわく、十一世紀にギリシア人、イタリアのベネヴェント公と戦い、甚《いた》くこれを苦しめた後、スポレト侯チッバルドこれを援《たす》けてギリシア軍を破り、数人を捕えこれを宮してギリシアの将軍に送り、ギリシア帝は特に閹人を愛するからこれだけ閹人を拵《こしら》えて進ずる、なおまた勝軍して一層多く拵えて進ぜようと言いやった。その後また多くギリシア人を虜して一日ことごとくこれを宮せんとす。爾時《そのとき》その捕虜の一妻大忙ぎで走り込み、侯と話さんと乞うた。侯その女に何故さように泣き叫ぶかと問うと、女|対《こた》えて「わが君よ、君ほどの勇将がギリシアの男子が君に抵抗し能わざるに乗じ、か弱き女人と戦うて娯《たの》しまんとするを妾は怪しむ」といった。侯昔女人国が他国の男子と戦うた以来かつて男子が女子と戦うたと聞かぬというと、ギリシア婦人いわく「わが君よ、妾らの夫にある物あって妾輩に健康と快楽と子女を与う。その大事の物を夫の身より奪い去るとは、世にこれほど女人と戦い苦しむる悪業またあるべきや、これ夫を宮するならず実に妾輩を去勢するに当る。過ぐる数日間わが蔵品家畜を君の軍勢に多く掠《かす》められたが苦情を述べず」と言いさして侯の面を見詰め、「心安い多くの婦人から奪われた大事の物の紛失は癒《いや》すに術《すべ》なきを見てやむをえず、勝者の愍憐《びんれん》を乞いに来ました」と、この質直な陳述を聴いていかでか感ぜざらん、大いに同情してその女に夫ばかりか掠奪物一切を還しやったとあれば、他の捕虜どもは皆去勢されたので「高縄の花屋へ来るも来るも後家《ごけ》」、「痛むべし四十余人の後家が出来」とある。亭主に死に別れたは諦《あきら》めも付こうが、これはまた生きながら死んだも同然の亭主の顔を見るたびに想い出す、事実上の後家が大勢出来たのだ。さて彼女が夫を伴《つ》れ去らんとするに臨み、侯呼び還して、今後また汝の夫が干戈《かんか》を執ってわが軍に向わばどう処分すべきやと尋ねると、女大いにせき込んで「眼も鼻も手足もわが夫の物なれば罪相応に取り去られよ、夫の身にありながら妾の専有たる大事の物は必ず残してくだされ」と、少しの笑顔も悪《にく》からず、あぶないぞえと手を採って導き帰るぞ哀れなるとある。
昔趙人|藺相如《りんしょうじょ》が手に鶏を縛るの力なくして、秦廷に強勢の昭王をやりこめ天下に二つとない和氏《かし》連城の玉を全うして還ったは、大枚の国費で若い女や料理人まで伴れ行き猫の欠《あくび》ほどの発言も為《な》し得なんだ人物と霄壌《しょうじょう》だが、このギリシア婦人が揚威せる敵軍に直入して二つしかないその夫の大事の玉を助命して帰ったは、勇気貞操兼ね備わり、真に見揚げたとまで言い掛けたが、女を見揚ぐるはどこぞに野心あるからと仏が戒めたから中止として、谷本博士が言われた通り、婦女に喉を切る嗜《たしな》みなどを仕込むよりは、睾丸の命乞いは別として、勇胆弁才能く敵将を説伏するほどの心掛けを持たせたい事である。
俗に陰嚢の垂れたるは落ち着いた徴《しるし》で、昔武士が戦場で自分の剛臆を試むるに陰嚢を探って垂れ居るか縮み上ったかを検したというが、パッチ股引《ももひき》ジャあるまいし甲冑を著《き》て容易《たやす》く探り得ただろうか。したがって陰嚢の垂れた人は気が長いという。これは本当で、かく申す熊楠のは何時《いつ》も糸瓜《へちま》のごとし。それ故か何事をも糸瓜とも思わず、ブラブラと日を送るから昨年の「猴に関する民俗と伝説」も麁稿《そこう》は完成しながら容易に清書せず忘れてしまい、歳迫ってようやく気が付き清書に掛かったが間に合わず、ついに民俗までで打ち切って伝説の部は出し得なんだに由って今この篇は先例を逆さまに伝説から書き始めた。こんな気の長い人が西洋にもあったものか、チャムバースの『ブック・オヴ・デイス』に珍譚あり。昔話に物言わずに生まれ付いた人が騎馬して橋を過ぐる内、顧みてその家来に汝は鶏卵を好くかと問うとハイ好きますと答えた。何事もなしに一年経って一日同じ橋を騎馬で過ぐる内、同じ家来に去年の問いを続けるつもりでどんなのをと問うと、家来も抜からず焼いたのであります。これよりも豪いのはグラスゴウ附近カムプシーちゅう所の牧師アーチブルド・デンニストンで、一六五五年その職を免ぜられ、王政恢復(一六六〇年)の後復職した。免職前に講演第一条を終った続きの第二条を復職後述ぶる発端に、時節は変ったが聖教はいつも変らぬと口を切ったそうだ。ところがこの牧師も瞠若《どうじゃく》と尻餅を搗《つ》かにゃならぬ珍報が一八六二年の諸新聞紙に出た。紀元七十九年ヴェスヴィウス山大噴火のみぎり、ポンペイ市全滅に際しその大戯場で演劇を催しいた実跡あるに乗じ、今度ランギニてふ山師がポンペイの廃趾に戯場を建て、初演の広告に当戯場は千八百年目にいよいよまた「行儀の娘」の外題で開演するに付き、前の座主マルクス・キンツス・マルチウスの経営中に劣らず出精《しゅっせい》致しますれば、貴顕紳士は相替らず御贔屓《ごひいき》御入来を願うと張り出した。熊楠いう、東洋にはずっと豪いのがあって、玄奘三蔵の『大唐西域記』巻十二|烏※[#「金+殺」、140−14]国《うせつこく》の条に、その都の西二百余里の大山頂に卒都婆《そとば》あり、土俗曰く、数百年前この山の崖崩れた中に比丘《びく》瞑目《めいもく》して坐し、躯量偉大、形容|枯槁《ここう》し、鬚髪《しゅはつ》下垂して肩に被《かか》り面に蒙《かむ》る。王も都人も見物に出懸け香花《こうげ》を供う、この巨人は誰だろうと王が言うと、一僧これは袈裟《けさ》を掛け居るから滅心定《めっしんじょう》に入った阿羅漢だろう、この定に入るに期限あり、※[#「特のへん+廴+聿」、第3水準1−87−71]稚《かんち》(わが邦の寺で敲《たた》き鳴らす雲板、チョウハンの類)の音を聞けば起るとも、日光に触れば起るともいう、さもない間は動かず、定《じょう》の力で身体壊れず、かく久しく断食した人が定を出たら酥油《そゆ》を注いで全身を潤《うるお》し、さて※[#「特のへん+廴+聿」、第3水準1−87−71]稚を鳴らして寤《さ》ますがよいと答えた。その通りして音を立てる事わずかにして羅漢眼を開き、久しく見廻して汝ら何人で形容卑劣なくせに尊い袈裟を被るぞと問うた。かの僧我は比丘だと答うると、しからば我師|迦葉波《かしょうは》如来は今|何処《いずこ》にありやと問う。かの如来は大涅槃《だいねはん》に入りて既に久しと聞いて目を閉じ残念な顔付しまた釈迦如来は世に出たかと問うから、昔生まれて世を導きすでに寂滅《じゃくめつ》されたと答う。久しく頭を俯《ふ》した後|虚空《こくう》に昇り、自分で火を出し身を焚《や》いて遺骸地に堕ちたのを、王が収めてこの塔を立てたと見ゆ。
誰も知る通り婆羅門教に今の時代を悪劫《あくごう》とするに反し、仏教には賢劫《けんごう》と称す。この賢劫に四仏既に出た。人寿五万歳の時|拘留孫仏《くるそんぶつ》、人寿四万歳の時|倶那含牟尼仏《くなごんむにぶつ》、人寿二万歳の時迦葉波仏、人寿百歳の時釈迦牟尼仏が出て今の仏法を説いた。それより段々減じて人寿十歳、身の長《たけ》一尺、女人生まれて五月にして嫁す。人気至って悪く悪行する者は人に敬せられ、草木瓦石を執るも皆刀剣とあり、横死無数なり。その時山に蔵《かく》るる者ただ一万人残る。他の人種相殺し尽した後《のち》出で来り相見て慈心を起し共に善法を行う。その功徳《くどく》で百年ごとに一年ずつ命が増す、人寿八万四千歳に上りそれより八万歳を減ずる時賢劫の第五仏|弥勒仏《みろくぶつ》が出る。減じたというものの、人の命が八万年でそれより一年も若くて死ぬ者なく、女人は五百歳で方《まさ》に嫁す。日に妙楽を受け、禅定《ぜんじょう》に遊ぶ事三禅の天人のごとく常に慈心ありて恭敬和順し一切殺生せず。ただ飲食便利衰老の煩を免るる能わず。香美の稲ありて一度|種《う》うれば七度収穫され、百味具足し口に入ればたちまち消化す。大小便の時地裂け赤蓮花を生じて穢気を蔽《おお》うとあるから、そんな結構な時代の人もやはり臭い糞は垂れるのだ。人民老ゆれば自然に樹下に往き、念仏して静かに往生し、大梵天や諸仏の前に生まる。その時の聖王に子千人と四大宝蔵あって中に珍宝満つ。衆人これを見て貪著《とんじゃく》せず、釈迦仏の時昔の衆生この宝のために相《あい》偸劫《とうごう》して罪を造ったと各|呆《あき》れる。その時弥勒仏生まれて成道《じょうどう》し、件《くだん》の聖王その悴《せがれ》九百九十九人と弟子となって出家し一子のみ出家せずに王位を嗣《つ》ぐ。弥勒世尊、翅頭末《しとうまつ》城外《じょうがい》の金剛荘厳道場《こんごうしょうごんどうじょう》竜華菩提樹下《りゅうげぼだいじゅげ》で成道する。この樹は枝が宝竜のごとく百の宝華《ほうげ》を吐く故この名あり。初めに金剛座上で説法し九十六億人阿羅漢を得、二会と三会に城外の華林園で説法し、九十四億と九十二億の人が阿羅漢となる。これを竜華の三会といって馬琴の『八犬伝』の文句にも出れば、弥陀の念仏流行して西方浄土往きの切符大投げ売りとなるまでは、キリスト教の多くの聖人大士が極楽へ直通りせず最終裁判の日を待ち合すごとく、弘法大師その他の名僧信徒、殊《こと》に畏《おそ》れ多いが至尊で落飾された方々もこの弥勒の出世をあるいは入定したり、あるいは天上霊域で待ち合され居るはずとさる高僧から承った。とにかく昔の仏徒が弥勒の出世を竢《ま》つ事、古いキリスト教徒がミルレニウムを竢ったごとく、したがって、中国や朝鮮で弥勒と僭号《せんごう》して乱を作《な》した者もありと記憶し、本邦でも弥勒十年辰の年など万歳《まんざい》が唱え祝い、余幼時「大和国がら女の呼《よば》いおとこ弥勒の世じゃわいな」てふ俚謡を聞いた。およそ仏教の諸経に、弥勒の世界と鬱単越洲《うつたんのっしゅう》を記せる、その人間全く無差別で平等で、これが西洋で説かれていたら遠くの昔に弥勒社会主義とかようのものが大いに起ったはずだが、東洋には上述の僅々小人がこれを冒して、小暴動を起したくらいに止まり、わが邦では古く帝皇以下ことごとくその経文を篤信して静かにその出世を竢たれたので、どんな結構な文も読む者の心得一つで危険思想も生ずれば、どんな異常な考えを述べた者も穏やかにこれを味わえば人心を和らげ文化を進めるに大益ありと判る。ただし『仏説観弥勒菩薩|下生経《げしょうきょう》』に、この閻浮提洲《えんぶだいしゅう》、弥勒の世となって、危険な物や穢《きたな》い物ことごとく消え失せ、人心均平、言辞一類となり、地は自然に香米を生じ、衣食一切の患苦なしとあるに、無数の宝を蔵《おさ》めた四大倉庫自然に現出すると、守蔵人、王に白《もう》す。ただ願わくば大王この宝蔵の物を以てことごとく貧窮に施せと、爾時《そのとき》大王この宝を得《え》已《おわ》ってまた省録せず、ついに財物の想なしと言えるは辻褄が合わず、どんな暮しやすい世になっても、否暮しやすければやすいほど貧乏人は絶えぬ物と見える。さて、弥勒世尊無量の人と耆闍崛山《ぎしゃくつせん》頂に登り、手ずから山峯を擘《つんざ》く。その時梵王天の香油を以て大迦葉尊者の身に灌《そそ》ぎ、大※[#「特のへん+廴+聿」、第3水準1−87−71]稚《だいかんち》を鳴らし大法螺《おおぼら》を吹く音を聞いて、大迦葉すなわち滅尽定《めつじんじょう》より覚《さ》め、衣服を斉整して長跪
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