《ちょうき》合掌し、釈迦如来涅槃に臨んで大迦葉に付嘱した法衣を持って弥勒仏に授け奉る。釈迦の身長は一丈八尺とか、その法衣が弥勒仏の両指をわずかに掩《おお》うはずと土宜法竜僧正から承った。さればこの時諸大衆今日この山頂に人頭の小虫|醜陋《しゅうろう》なるが僧服を著て世尊を礼拝するは珍なものだと嘲ると、弥勒世尊一同に向い、孔雀好色あれど鷹、鶻鷂《こつよう》に食われ、白象無量の力あるを、獅子獣小さしといえども撮《と》り食らう事|塵土《じんど》のごとし、大竜身無量にして金翅鳥《こんじちょう》に搏《う》たる、人身長大にして、肥白端正に好しといえども、七宝の瓶《かめ》に糞を盛り、汚穢《おわい》堪うべからず、この人短小といえども、智慧錬金のごとく、煩悩の習久しく尽き、生死苦余すなし、護法の故にここに住み、常に頭陀事《ずだじ》を行う。天人中最も勝《すぐ》れ、苦行与等なし、牟尼両足尊、遣わし来って我所に至る。汝らまさに一心に、合掌して恭《うやうや》しく敬礼すべしと偈《げ》を説き、釈迦牟尼世尊五濁の悪世に衆生を教化《きょうけ》した時、千二百五十弟子の中で頭陀第一、身体金色で、金色の美婦を捨て、出家学道昼夜精進して貧苦下賤の衆生を慈愍《じびん》し、恒《つね》にこれを福度し、法のために世に住する摩訶迦葉とはこの人これなりと呵《か》するので一同睾丸縮み上って恐れ入る。一丈八尺の法衣が二指を掩い兼ねるほどの巨人の睾丸だから、一個の直径一|間《けん》は確かにある。そこで大迦葉尊者前述|烏※[#「金+殺」、144−14]国《うせつこく》の出定《しゅつじょう》阿羅漢同様の芸当を演じ、自ら火化する骨を弥勒が拾うて塔婆を立つるという未来記だが、五十六億七千万年後のこと故信ずるにも足らねば疑うも気が利かぬ。ただ熊楠がここに一言するは、壮歳諸国を歴遊した頃は、逢う南中米のスペイン人ごとに余を軽視する事甚だしく、チノ・エス・エル・シウダッド・デル・ハボン(支那は日本の都)といって、日本とは支那の領地の片田舎と心得た者のみだった。かく肩身の狭い日本に生まれながら、その頃の若者はそれぞれ一癖も二癖もあり、吾輩自身も自分がかつてこれほどの事がよく出来たと驚くほどの働きをした。しかるに日本の肩味が広くなればなるほど、これが何で五大国の一かと重ね重ね怪しまるるほど日本人の実価が下ったように思う。孔雀好色あれど鷹に食われ、獅子小といえども大象を撮り食う事塵土のごとしという。弥勒、如来の詞《ことば》は分り切った事ながら各の身に当て省みるべきじゃ。『西域記』九には大迦葉が釈迦の法衣を守って入定し居る地を鶏足《けいそく》山とす。三つの峯|聳《そび》えて鶏の足に似たから名づけたらしい(ビール英訳、二巻一四二頁註)、これは耆闍崛山と別だ。「迦葉尊者は鶏足に袈裟を守って閉じ籠る」という和讃《わさん》あれば、本邦では普通鶏足山に入定すとしたのだ。支那にも『史記』六に〈始皇|隴西《ろうせい》北地を巡り、鶏頭山に出で、回中を過ぐ〉とある。鶏頭の形した山と見える。
[#地から2字上げ](大正十年一月、『太陽』二七ノ一)

       2

 この稿を続けるに臨み啓《もう》し置くは、鶏の伝説は余りに多いからその一部分を「桑名徳蔵と紀州串本港の橋杭《はしくい》岩」と題して出し置いた。故川田|甕江《おうこう》先生は、白石《はくせき》が鳩巣《きゅうそう》に宛《あ》てた書翰《しょかん》と『折焚柴《おりたくしば》の記』に浪人越前某の伝を同事異文で記したのを馬遷班固の文以上に讃《ほ》めたが、『太陽』へ出すこの文と『現代』へ寄せたかの文を併《あわ》せ読んだら、諸君は必ずよくもまあたった一つのこの鳥について、かくまで夥しい材料を、同じ噺《はなし》を重出せずに斉整して同時二篇に書き分けたものだ、南方さんは恐らく人間であるまいと驚嘆さるるに相違ない。さて前に釈迦の身長を記しながら「大仏の○○の太さは書き落し」で弥勒の身長を言い忘れたが、弥勒世界の人の身長は十六丈で弥勒仏の身長は三十二丈だ(『仏祖統記』三十)、また昔弥勒と僭号《せんごう》した乱賊あったと記憶のまま書き置いたが、確かに見出した例を挙げると高麗王辛※[#「示+禺」、146−7]八年五月妖民伊金を誅す、伊金は固城の民で自ら弥勒仏と称し、衆を惑わして我能く釈迦仏を呼び寄せる。およそ神祇を祀《まつ》る者、馬牛肉を食う者、人に財を分たぬ者は必ず死ぬ、わが言を信ぜずば三月に至って日月光なし、またわれは草に青い花を咲かせ、木に穀を実《みの》らせ、一度|種《う》えて二度刈り取らしめ能《あた》う。また山川の神をことごとく日本に送り倭賊を擒《とりこ》にすべしなど宣言したので、愚民ども城隍《じょうこう》祠廟《しびょう》の神を撤《す》て去り、伊金を仏ごとく敬い福利を祈る、無頼の徒その弟子と称し相《あい》誑《たぶら》かし、至る所の州郡守令出迎えて上舎に館する者あり、清州の牧使権和、その渠首《きょしゅ》五人を捕斬しようやく鎮《しず》まったという(『東国|通鑑《つがん》』五一)、当時高麗人日本を畏るるに乗じ、弥勒仏と詐称した偽救世主が出た。その事極めて米国を怖るる昨今|大本教《おおもときょう》が頭を上げたと似て居るぞよ[#「ぞよ」に白丸傍点]。怖れて騒ぐばかりでは何にもならぬぞよ[#「ぞよ」に白丸傍点]。支那にも北魏孝荘帝の時|冀《き》州の沙門法慶、新仏出世と称し乱を作《な》した(『仏祖統記』三八)。
 さて前回やり掛けた鶏足山の話を続ける。大迦葉が入定《にゅうじょう》して弥勒の下生《げしょう》を待つ所を、耆闍崛山《ぎしゃくつせん》とするは『涅槃経後分』に基づき、鶏足山とするは『付法蔵経』に拠る(『仏祖統紀』五)。『観弥勒菩薩下生経』に弥勒は鶏頭山に生まるべしとあれば、かたがたこの仏は鶏に縁厚いらしい。支那には雲南に鶏足山あり、一頂にして三足故名づく、山頂に洞《ほら》あり。迦葉これに籠って仏衣を守り弥勒を俟つという(『大清一統志』三一九)。本邦でも中尊寺の鶏足洞、遠州の鶏足山正法寺など、柳田氏の『石神《しゃくじん》問答』に古く鶏を神とした俗より出た名のごとく書いたようだが、全く弥勒と迦葉の仏説に因った号と察する。
 かく東洋では平等無差別の弥勒世界を心長く待つ迦葉と鶏足を縁厚しとし、したがって改造や普選の運動家はこれを徽章《きしょう》に旗標に用いてしかるべき鶏の足も、所変われば品《しな》変わるで、西洋では至って不祥な悪魔の表識とされ居るので面黒い。それは専ら中世盛んに信ぜられた妖鬼アスモデウスの話に基づき、その話はジスレリーの『文界奇観』等にしばしば繰り返され、殊にルサージュの傑作『ジアブル・ボアトー』に依って名高い。婬鬼の迷信は中古まで欧州で深く人心に浸《し》み込み、碩学高僧真面目にこれを禦《ふせ》ぐ法を論ぜしもの少なからず。実体なき鬼が男女に化けて人と交わり、甚だしきは子を孕ませまた子を孕むというので、ローマの開祖ロムルスとレムス、ローマの第六王セルヴィウス・ツリウス、哲学者プラトンやアレキサンダー王、ギリシアの勇将アリストメネス、ローマの名将スキピオ・アフリカヌス、英国の術士メルリン、耶蘇《ヤソ》新教の創立者ルーテルなどいずれも婬鬼を父として生まれたとか(一八七九年パリ板シニストラリの『婬鬼論』五五頁)、わが邦には古く金剛山の聖人|染殿《そめどの》后を恋い餓死して黒鬼となり、衆人の面前も憚《はばか》らず后を※[#「女+堯」、第4水準2−5−82]乱《じょうらん》した譚あり(『今昔物語』二十の七)、近くは一九《いっく》の小説『安本丹《あんぽんたん》』に、安本屋丹吉の幽霊が昔|馴染《なじみ》の娼妓、人の妻となり、夫に添い臥《ね》た所へ毎夜通い子を生まし大捫択《だいもんちゃく》を起す事あり。欧州にも『ベルナルズス尊者伝』にナントの一婦その夫と臥た処を毎夜鬼に犯さるるに、夫熟睡して知らず、後|事《こと》露《あら》われ夫|惧《おそ》れて妻を離縁したと載せ、スプレンゲルはある人鬼がその妻を犯すを睹《み》、刀を揮《ふる》うて斬れども更に斬れなんだと記す。ボダン説に鬼交は人交と異なるなし、ただ鬼の精冷たきを異とすと。支那でも『西遊記』に烏鶏国王を井に陥《おとしい》れ封じた道士がその王に化けて国を治む、王の太子母后に尋ねて父王の身三年来氷のごとく冷たしと聞き、その変化《へんげ》の物たるを知り、唐僧師弟の助力で獅子の本身を現わさしめ、父王を再活復位せしめたとある。仏説にも男女もしくは黄門(非男非女の中性人)が売婬で財を得、不浄身もて妄《みだ》りに施さば死後欲色餓鬼に生まれ、随意に美男美女に化けて人と交会すという(『正法念処経』一七)、一六三一年ローマ板ボルリの『交趾《こうし》支那伝道記』二一四頁に、その頃交趾に婬鬼多く、貴族の婦女これと通ずるを名誉とし、甚だしきはその種を宿して卵を生む者あり、しかるに貧民は婬鬼を厭うの余り天主教に帰依してこれを防いだと出《い》づ。宋朝以来南支那に盛んな五通神は、家畜の精が丈夫に化けて暴《にわ》かに人家に押し入り、美婦を強辱するのだ(『聊斎志異《りょうさいしい》』四)。けだし婬鬼に二源あり、一は男女の精神異態より、夢うつつの間に鬼と交わると感ずる者。今一つは若干の古ローマ帝が獣皮を被って婦女を姦したごとく、特種の性癖ある者があるいは秘社を結び、あるいは単独で巧みに鬼の真似《まね》して実際婦女を犯したのだ。そのほかに人と通じながら世間を憚って鬼に犯されたと詐称したのもすこぶる多かろう。四十年ほど已前、紀州湯浅町の良家の若い妻が盆踊りを見に往きて海岸に※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《しょうよう》するところを、壮漢数輩|拉《らっ》して沖の小島へ伴れ行き輪姦せしを本人も一族も慙《は》じて、大亀の背に乗せて島へ運ばれたと浦島子伝の翻案を言い触らしていた。古アッカジア人既に婬鬼を攘《はら》う呪法を備え(一八七四年パリ板ルノルマン著『カルジアおよびアッカジア魔法篇』三六頁)、一八一七年板マーチンの『トンガ島人記』二巻一一九頁には、ホトア・ポウてふ邪神好んで悪戯して人を苦しむ。ハモア島民はこの神しばしば睡中婦女を犯し、ために孕まさるる者多し。けだし不貞を掩うによき口実だと記す。以て婬鬼の迷信がいかに古く、またいかな小島までも行われたるを知るに足る。南インドでは難産や経行中死んだ女はチュデル鬼となり、前は嬋娟《せんけん》たる美女と見ゆれど、後は凄愴《せいそう》たる骸骨で両肩なし、たまたま人に逢わば乞いてその家に伴れ行き、夜の友となりて六月内に彼を衰死せしむと信ず(エントホウエンの『グジャラット民俗記』一〇七および一五二頁)、かく諸方に多い婬鬼の中でアスモデウス最も著《あら》わる。あるいはいう最初の女エヴァを誘惑した蛇、すなわちこの鬼だと。ウィエルス説に、この鬼、地獄で強勢の王たり。牛と人と山羊に類せる頭三つあり。蛇の尾、鵞の足を具え、焔《ほのお》の息を吐き竜に乗りて左右手に旗と矛《ほこ》を持つと(コラン・ド・ブランシー『妖怪辞彙』五板四六頁)、アラビアの古伝にいう、ソロモン王、アスモデウスの印環を奪いこれを囚《とら》う。一日ソロモン秘事をアに問うに、わが鎖を寛《ゆる》くし印環を還さば答うべしというた。ソロモン王その通りせしに、アたちまち王を嚥《の》み、他に一足を駐《と》めて両翅を天まで伸ばし、四百里外に王を吐き飛ばすを知る者なかった。かくてこの鬼、王に化けてその位に居る。ソロモン落魄《らくはく》して、乞食し「説法者たるわれはかつてエルサレムでイスラエルに王たりき」と言い続く、たまたま会議中の師父輩が聞き付けて、阿房《あほ》の言う事は時々変るに、この乞食は同じ事のみ言うから意味ありげだとあって、内臣にこの頃王しばしば汝を見るやと問うと、否《いな》と答えた。由って諸妃を訪うて、その房へ王来る事ありやと尋ねると、ありと答えた。そこで諸妃に注意して、王の足はどんな形かと問うた。けだし鬼の足は鶏の足のようだからだ。諸妃
前へ 次へ
全15ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング