答えたは、王は不断|半履《はんぐつ》を穿《は》きて足を見せず、法に禁ぜられ居る時刻に、強いてわれわれを婬し、また母后バトシェバを犯さんとして、従わぬを怒り、ほとんど片裂せんとしたと。諸師父、さては妖怪に極《きま》ったと急いで相集まり、印環と強勢の符※[#「竹かんむり/(金+碌のつくり)」、第3水準1−89−79]《ふろく》を鐫《え》り付けた鎖を、乞食体の真王に渡し、導いて宮に入ると、今まで王位に座しいたアスモデウス大いに叫んで逃れ去り、ソロモン王位に復したと。ヘブリウの異伝には、アスモデウス身を隠してソロモン王の妃に通ぜしに、王その床辺に灰を撒布し、旦《あした》に鶏足ごとき跡を印せるを見て、鬼王の所為《しょい》を認めたりという。この鬼の足、鵞足に似たりとも、鶏足に似たりともいう。
ドイツの俚説に灰上に家鴨《あひる》や鵞の足形を印すれば、罔両《もうりょう》ありと知るという(タイラー『原始人文篇』二板、二巻一九八頁)。東西洋ともに鬼の指を鳥の足のごとく画くは、過去地質期に人間の先祖が巨大異態の爬虫類と同時に生存して、甚《いた》く怪しみ、怖れた遺風であろう。知人故ウィリヤム・フォーセル・カービー氏の『エストニアの勇士篇』にも諸国|蛟竜《こうりゅう》の誕《はなし》は右様の爬虫類、遠い昔に全滅したものより転訛《てんか》しただろうと言われた。実際鳥と爬虫とその足跡分別しがたいもの多く、『五雑俎』九の画竜三停九似の説にも、爪鷹に似るとあり。『山海経《せんがいきょう》』の図などに見るごとく、竜と鬼とは至って近いもの故、鬼の足、また手を鳥足ごとく想像したと見える。灰を撒いて鬼の足跡を検出する事は、拙文「幽霊に足なしという事」について見られよ。
鶏の霊験譚は随分あるがただ二、三を挙げよう。『諸社一覧』八に『太神宮神異記』を引いて、豊太閤の時朝鮮人来朝せしに、食用のためとて太神宮にいくらもある鶏を取り寄せ籠《かご》に入れてあまた上せけるに、ほどなく皆返さる。これは朝鮮人の食物に毛をむしりたる鳥、俎《まないた》の上にて生きて起《た》ち上り時を作りけるに因ると。また『三国伝説』を引いて、三島の社に目《め》潰《つぶ》れたる鶏あり。いつも暗ければ時ならず時を作り、朝夕を弁《わきま》えず。風霜に苦しみ、食に乏しく、痩《や》せ衰うるを愍《あわれ》み、ある修行者短冊を書き、鳥の頸に付くるに、たちまち目開く、その歌は「には鳥のなくねを神の聞きながら心強くも日を見せぬかな」とある。
耶蘇教国にもややこの類の話がスペインにある。昔青年あり老父母とサンチアゴ・デ・コンポステラへ巡礼に出た。サンチアゴ(英語でセント・ジェームス、仏語でサン・ジャク)大尊者はキリストの大弟子中、ペテロに亜《つ》いだ勢力あり。その弟、ジョアンとともにキリストの雷子と呼ばる。後《のち》殉教に臨みこれを訴えし者、その為人《ひととなり》に感動され、たちまちわれもまたキリスト教徒なりと自白し、伴い行きて刑に就く。途上尊者に向い罪を謝し、共に斬首された。この尊者かつてスペインに宣教したてふ旧伝あって、八三五年にイリアの僧正テオドミル、奇態な星に導かれてその遺体を見出してより、そこをカンポ・ステラ(星の原)、それが転じてコンポステラと呼ばれたという。コンポステラの伽藍《がらん》に尊者の屍を安置し霊験灼然とあって、中世諸国より巡礼日夜至って、押すな突くなの賑《にぎわ》い劇《はげ》しく、欧州第一の参詣場たり。因ってスペイン人は今も銀河《あまのがわ》をエル・カミノ・デ・サンチアゴ(サンチアゴ道)と呼ぶ。これ『塩尻』巻四六に、中古吉野初瀬|詣《もう》で衰えて熊野参り繁昌し、王公|已下《いか》道者の往来絶えず、したがって蟻《あり》が一道を行きてやまざるを熊野参りに比したとあり。今も南紀の小児、蟻を見れば「蟻もダンナもよってこい、熊野参りにしょうら」と唱うるは、昔熊野参り引きも切らざりし事、蟻群の行列際限を見ざるようだったに基づく。それと等しく銀河中の星の数、言語に絶して夥しきを、サンチアゴ詣での人数に比べたのだ。そのサンチアゴ・デ・コンポステラへ老父母と伴れて参る一青年が、途上サンドミンゴ・デラ・カルザダで一泊すると、宿主の娘が、一と目三井寺|焦《こが》るる胸を主《ぬし》は察して晩《くれ》の鐘と、その閨《ねや》に忍んで打ち口説《くど》けど聞き入れざるを恨み、青年の袋の内へ銀製の名器を入れ置き、彼わが家宝を盗んだと訴え、青年捕縛されて串刺《くしざ》しに処せられた。双親老いて若い子の冤刑《えんけい》に逢い、最も悲しい悲しさに涙の絶え間なしといえども、さてあるべきにあらざれば志すサンチアゴ詣でを済まし、三人伴れて出た故郷へ二人で帰る力なさ、せめて今一度亡児の跡を見収めにとサンドミンゴに立ち寄ると、確かに刑死を見届けたその子が息災で生きいた。これ全くサンチアゴ大尊者の霊験、世は澆季《ぎょうき》に及ぶといえどもと、お定まりの文句で衆人驚嘆せざるなし。所の監督食事中この報に接し、更に信ぜず。確かに死んだあの青年が活き居るなら、ここにある鶏の焼き鳥も動き出すはずと、言いおわらざるに、その鶏たちまち羽生え時を作り、皿より飛び出で遁《に》げ去った。やがて宿主の娘は刑せられ、この霊験の故に鶏を神使と崇《あが》め、サンドミンゴの家々今に鶏毛もて飾らるという事じゃ(グベルナチスの『動物譚原』二巻二八三頁。参取。『大英百科全書』一五巻一三五頁。二四巻一九二頁)。
サウシーの『随得手録』三輯記する所はやや異なるなり。いわくサンドミンゴ・デラ・カルザダで一女巡礼男に据え膳を拒まれた意趣返しに、その手荷物中に銀の什器《じゅうき》を入れ窃盗と誣告《ぶこく》す。その手荷物を検するに果して銀器あり。因って絞殺に処せられ、屍を絞架上に釣り下げ置かる。かの男の父、その子の成り行きを知らず、商いしてここへ来ると、絞台上から子が父を呼び留め、仔細を語り、直ちにその冤を奉行に報ぜしむ。奉行ちょうど膳に向い、鶏、一番《ひとつが》いを味わわんとするところで、この鶏復活したらそんな話も信ぜられようと言うや否や、鶏たちまち羽毛を生じて起ち上った。大騒ぎとなってかの男を絞架より卸したとあれど、そのしまいは記されず。ただしその絞架を寺の上に据え、その時復活した白い雌雄の鶏を祭壇の側に畜《やしの》うたが、数百年生きていたと。サウシーの『コンポステラ巡礼物語』はこれを敷衍《ふえん》したものだ。件《くだん》のサンチアゴ大尊者は、スペイン国の守護尊として特に尊ばれ、クラヴィホその他の戦場にしばしば現われてその軍を助けたという。
カンポステラに詣で、これを拝する者は、皆|杓子貝《しゃくしがい》を佩《お》ぶ。その事日本の巡礼|輩《ら》が杓子貝を帯ぶるに合うとは、多賀や宮島に詣る者、杓子を求め帰るを誤聞したものか。英国にも杓子貝を紋とする貴族二十五家まであるは、昔カンポステラ巡礼の盛大なりしを忍ばせる。
昔この尊者の遺体を、大理石作りの船でエルサレムよりスペインへ渡す。ポルトガルの一武士の乗馬これを見、驚いて海に入ったのを救い上げて見ると、その武士の衣裳全く杓子貝に付き覆《おお》われいた。霊験記念のためこの介《かい》を、この尊者の標章とする由。英国ではこの尊者の忌日、七月二十五日に牡蠣《かき》を食えば年中金乏しからずとて、価を吝《おし》まずこの日売り初めの牡蠣を食い、牡蠣料理店大いに忙し。店に捨てた多くの空殻《あきがら》を集めて小児が積み上げ、その上に蝋燭を点《とも》し、行人に一銭を乞いてその料とす。定めて杓子貝に近いもの故だろう(チャンバースの『ブック・オヴ・デイス』二巻一二二頁。ハズリット『諸信および俚伝』二巻三四四頁)。
鶏に係わる因果譚や報応譚は極めて多い。今ただ二、三を掲ぐ。『新著聞集』酬恩篇に、相馬家中の富田作兵衛二階に仮寝した夢に、美女来って只今我殺さるるを助けたまわば、末々御守りとも成らんという。起きて二階を下り見れば、傍輩ども牝鶏を殺す所なり。只今かかる夢を見しこの鳥、我にと、強いて乞い受け、日比谷の神明に放つ。殿の母公聞きて優しき事と、作兵衛に樽肴を賜わる。その後《のち》別の奉公の品もなきに、二百五十石新恩を拝領せしは、寛文中の事とあり。またその殃禍篇《おうかへん》に、美濃の御嶽《おんたけ》村の土屋某、日来《ひごろ》好んで鶏卵を食いしが、いつしか頭ことごとく禿《は》げて、後《のち》鶏の産毛《うぶげ》一面に生じたと載す。支那でも周の武帝鶏卵を好き食い、抜彪《ばつひょう》なる者、御食を進め寵せらる。隋朝起ってなお文帝に事《つか》え食を進む。この人死後三日に蘇《よみがえ》り、文帝に申せしは、死して冥府《めいふ》に至ると、冥府の王汝武帝に進めし白団《はくだん》いくばくぞと問う。彪、何の事か解せず。傍の人、白団とは鶏卵じゃと教えたので、武帝が食うた卵の数は知れぬと答う。しからば帝食うただけの卵を出すべしとて、牛頭《ごず》人身《じんしん》の獄卒して、鉄床《かなとこ》上に臥《ふ》したる帝を鉄梁もて圧《おさ》えしむるに、両肩裂けて十余石ばかりの卵こぼれ出《い》づ。帝、彪に向い、汝|娑婆《しゃば》に還って大隋天子に告げ、我がこの苦を免れしめよと言うたと。文帝、すなわち天下に勅し、毎人一銭を出して武帝の追福を修めたそうだ(『法苑珠林』九四)。
こんな詰まらぬ法螺談《ほらばなし》も、盗跖《とうせき》は飴《あめ》を以て鑰《かぎ》を開くの例で、随分有益な参考になるというのは、昨今中央政府の遣り方の無鉄砲に倣い、府県|争《きそ》うて無用の事業を起し、無用の官吏を置くに随い、遊興税から庭園税、それから何々と、税目《ぜいもく》日に新たなるを加うる様子だが、ややもすれば名は多少違いながら、実は同じ物から、二重三重取りになるから、色々と抗議が出る。そこで余は隋帝の故智《こち》に倣い、秀吉とか家康とか種々雑多の人物が国家のために殺生した業報《ごっぽう》で、地獄に落ちおるのを救うためと称して、毎度一人一銭ずつの追福税を厳課し、出さぬ奴の先霊もたちまち地獄へ落ちると脅《おど》したら、何がさて大本教を信ぜぬと目が潰れるなど信ずる愚民の多い世の中、一廉《ひとかど》の実入りを収め得るに相違ない。末広一雄君の『人生百不思議』に曰く、日本人は西洋人と異なり、神を濫造し、また黜陟《ちゅっちょく》変更すと。既に先年|合祀《ごうし》を強行して、いわゆる基本財産の多寡を標準とし、賄贈《わいぞう》請託を魂胆《こんたん》とし、邦家発達の次第を攷《かんが》うるに大必要なる古社を滅却し、一夜造りの淫祠を昇格し、その余弊今に除かれず、大いに人心|蕩乱《とうらん》、気風壊敗を致すの本《もと》となった。しかし毒食らわば皿までじゃ。むしろその事、葬式、問い弔いを官営として坊主どもを乾《ほ》し上げ、また人ごとに一銭の追福税を課し、小野篁《おののたかむら》などこの世と地獄を懸け持ちで勤務した例もあり、せせこましい官吏どもに正六位の勲百等のと虚号をやったって何の役に立たず、恐敬もされぬから、大抵人民を苦しめた上は神をすら濫造黜陟する御威勢で、それぞれ地獄の官職に栄転させ、中国で貨幣を画《えが》き焼いて冥府へ届くるごとく、附け木へ六道銭を描いて月給に遣わすべしだ。それから今一つよい税源は、余が大正二年八月十四日の『不二新聞』へ書いた通り十四世紀のエジプト王ナーシルは、難渋な財政を救うべく、毎《つね》に女官をして高位の婦女の隠事を検せしめ、不貞税というやつを重く取り立てた。同世紀に文化を誇った仏国にも、ロア・デ・リボー(淫猥《いんわい》王)わが邦中古|傀儡《くぐつ》の長吏様の親方が所々にあって本夫《ほんぷ》外の男と親しむ女人より金五片ずつの税を徴した(ミュアーの『埃及《エジプト》奴隷王朝史』八三頁、ジュフールの『売靨史《ばいようし》』四巻二四頁)。現今わが邦男女不貞の行い夥しく、生温《なまぬる》い訓誡や、説法ではやむべくもあらざれば、すべからくこれに禁止税を掛くるべく、うるさく附け纒《まと》われて程の知れぬ口留め料を警
前へ
次へ
全15ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング